読響第659回名曲シリーズ 批評

2023年1月13日(金)
赤坂・サントリーホール
指揮 山田和樹
曲目
黛敏郎 曼荼羅交響曲(1960)
マーラー 交響曲第6番イ短調「悲劇的」(1903)

重量級のプログラム第1弾

新年早々、山田和樹がやってくれた。日本が誇る作曲家と、ヨーロッパの作曲家の大曲を一晩でそれぞれ聴かせるという斬新なプログラム。その第1弾として、今回は黛敏郎×マーラーという組み合わせでコンサートが行われた。
話題の演奏会とあって、本番に近づくにつれてチケットは売れていく。A・B・C席は完売し、残すS席も残席僅少という過酷な条件の中、ギリギリまで粘って掴み取った学生券を手に、なんとか潜り込めたサントリーホールでの熱演の様子をレポートする。

絶妙な指揮さばき、円熟期への第一歩を予感させた黛敏郎

まず前半は黛敏郎の「曼荼羅交響曲」が演奏された。仏教を通して、日本的美学を追い求めた黛敏郎の傑作「涅槃交響曲」が書かれたのが1958年。日本の寺にある梵鐘のひと突きの音を、出来立てのNHK電子音楽スタジオでスペクトル解析し、そこから導き出された音を「カンパノロジー」と名づけ、西洋の12の音にあてがい、オーケストラと読経の役割を担う男声合唱で見事に再現せしめた。それから2年。黛の梵鐘に対する研究はさらに進み、もはや歌や言葉をも排除した純粋な音のみによる世界で、仏教の美学を世に問うたのがこの「曼荼羅交響曲」であった。
第一部「金剛界曼荼羅」は、それぞれの音が1つずつ、だが強烈に出てくる部分があり、切れ味のよさは抜群であった。ことにトロンボーンの一打などはなかなかなものである。
1950〜60年代の前衛音楽真っ只中において、この世界観を維持しつつ黛は上手に描いている。使用される楽器にも無駄は見られない。その緻密なスコアを山田は上手に紐解いていたように思う。
第2部「胎蔵界曼荼羅」の聴きどころは、なんといっても曲の後半から最後にかけてであった。打ち鳴らされる「カンパノロジー・エフェクト」がひたすら繰り返され、その音響の先にじわじわと広がる後奏は、弦楽器のわずかな震えを伴いつつ、非常に静かに終わっていく。その最後の音が消え去る瞬間までを、山田は計算された棒によって見事に表現した。この繊細さなどを聴くと、若かりし頃の山田は今や姿を変え、円熟期へと向かっていくのではないかとの感想すら抱いた。無論だとすればまだその入り口に過ぎず、老匠の技などは感じられないのだが、そんな未来を予感させる演奏であった。

加えて、「岩城宏之さんは日本人作品の初演魔でした。私は再演魔になりたい」と語っていたことを思い出すと、今回の挑戦は非常に期待の持てるものである。こちらの動向も目が離せない。

重厚なマーラー、途切れぬ情熱

後半に演奏されたのはマーラーの交響曲第6番。「悲劇的」の愛称を持つこれは、1903年に書かれた作品で、19世紀に完成の域に達した交響曲を20世紀になってもなお続けようとするマーラーの探究心がそこかしこに見える意欲作だ。
マーラーの交響曲は、総じて長い。この第6番もその類に漏れることはなく、演奏時間も1時間20分はある大曲であるが、その中で行われる最大の試みは、苦悩から歓喜へ、というテーマの否定である。ベートーヴェンが第5交響曲で打ち出したこのスタイルは、短調で始まる第1楽章があって、だがそれが第4楽章になると長調になって終わる、というもので、まさに苦悩から歓喜へ、と表現するにふさわしい構成となっており、特に19世紀ドイツ(もしくはそこから影響を受けた作曲家)における交響曲の形は、概ねこのスタイルが採用されてきた。しかし、新たな時代に古臭いスタイルが通用するだろうか。これまで独唱者を入れたり、合唱を入れたり、5、6楽章制にするなど、交響曲の定石を打ち破ってきたマーラーにとって、この問題は彼の人生における重要な問題であり続けた。そんな中で生み出されたこの作品は、私生活においては最も充実した瞬間であったにも関わらず、苦悩と希望を求めて逡巡した挙句、最後は苦悩のどん底へ突き進むという構成となった。
イ長調の長三和音(ラ・ド♯・ミ)から、内声を半音下げて短三和音(ラ・ド・ミ)になる重要なモチーフを散りばめつつ展開されるこの音楽は、同時に極めて多彩な顔をのぞかせる。マーラーお得意の「森」「自然」をイメージする情景的音楽があれば、剥き出しの野生的なリズムが交錯する場面があったり、様々な悲喜こもごもを要求してくるのである。その点で言えば読響の演奏はお見事であったのではないだろうか。山田の指揮も大胆かつ緻密で、この多面的特徴を備えたこの曲を見事に乗りこなしてみせたように思う。
残念な点を挙げるのするなら、第4楽章の長大な経過において、オーケストラの緩みが見られた点だろうか。果たしてそれは金管の音程的な問題であったり、低弦の緊張感が薄れた感じ、などであったろう。
しかし、聴いていてその問題は大きなものではなく、全体としては非常にアグレッシブの音楽が堪能できた。
黛作品で見せた渋めな音楽性で、円熟期へ入っていくことを予感させたのに対して、マーラーでは非常に若々しい、いつもの山田らしい演奏といった演奏を見せてくれた。


来週には矢代秋雄の交響曲とリヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲を掛け合わせた、さらに重量級のプログラムが待っている。山田の采配やいかに。

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