演奏会評記録③ 「3人の会」評 武満徹 秋山邦晴 『音楽芸術』 1958年6月号 158-159p. より

「3人の会」の演奏会は、毎回いろいろと話題のたねになる。それも楽壇だけでなく、世間的な話題の雑とうのなかでひらかれる一種のショウの感じがあった。何千人の聴衆を集めてひらく今日の大演奏会は、はつきりいえば、作品の芸術的な発表会であると同時に、やはり一種の興行の性質がつきまとつていることには間違いない。日比谷公会堂や音楽会場だけを唯一の神聖な発表の場としか考えられないひとたちには、だから、たえず新しい時代に訴えかけようとしているこの「3人の会」のこのような発表会というものは、何かやりきれないものに (に [原文ママ]) おもわれるらしい。ところで、いままでの彼らの演奏会は、公衆とともに、にぎやかにさわぎたてる雰囲気や場所をつくつたのはいいが、ただ、そうした新しい殿堂や場のなかで、作品は一堂に爆発しなかったというところに問題があつた。しかしすでに結成から四年の歳月をへたこんどの第三回演奏会は、そうしたオプチミスティックなグループの性格から各自が抜けだして、それぞれ作品に、個性の主張を明確にうちだそうとしはじめている態度がみられたのは注目していい。新宿コマ劇場を演奏会場として、六管編成のN響と男性コーラスを使つた大がかりな演奏会であつたが、展示形式ばかりがショウ化して目をむく従来のこの会とは異つて、なによりも力を集中した作品が示されたのは、同じ若い世代のわれわれにもうれしかつたし、いろいろ問題を提起してもくれた。
芥川也寸志の「エローラ交響曲」は、インドのエローラ石窟寺院の東洋独自な空間構成に暗示をうけて、新しい音楽構成を試みようとしたものだが、従来の音楽の約束から音をとき放つて、新しい音楽表現にたち向おうとするこの試みは興味深ぶかい。しかしこの作品では、まだ徹底さを欠いて、従来の表現との折衷が感じられるところに問題があつた。従来の西欧の伝統音楽が、次第次第に積みあげられていつてクライマックスをつくるのに対して、彼はマイナス空間––––つまり音をとり除いていくという構成法を試みようとしているのだが、そのためには、さらに徹底的に押しすすめる大胆な態度が必要だろう。たとえば、この作品でしばしば現れる低音から高音へ向つていく和音の堆積のパターン(十二音音楽などで常套されている)なども、この作品のなかでは、何かなじんでいない奇異な感じで、妙に浮きあがつていた。また、動的な和音の堆積がフォルテシモになつて、突然スタティクな空間(休止)が現れる。この型は、絃のトレモロ、打楽器、管楽器といろいろな手法で試みられてはいるが、何度も規則的に繰り返えされるために、一つの周期を感じさせ、休止のもっている突然おそいかかる沈黙のエネルギーもあたえずに、聴衆に、あらかじめその出現を用意させてしまう。つまり、新しい構成法なり、内容が必然に要求すべき性質とは異つた要素が、まだ折衷されていて、マイナス空間の感動からは遠い、ヨーロッパ的な便法によりかかつている部分があるために、作品としての弱さが感じられたのである。ここでは楽器法(あるいは奏法)についても、いろいろ試みられている。最後の早い部分では、それぞれ異る土俗的な旋律が重なりあつて奏され、原始的な、ヴァイタルな風景––––詩的なイメージがある。しかし、それはかれの感性からひよつこり顔をだしたようなもので、それをさらに、技法的に追求し、解決していく鋭い即物的なみきわめが必要ではないかとおもう。とにかくこの作品には、かれの新しい仕事のきざしがみえている。古い仕事の限界を大胆にふみだして、発展していつてほしい。それには、今後ヨーロッパとは異質なリズムの特異な発展、それに附随して新しい記譜法の問題にまでぶつかり、徹底的に追求していかなければならないだろう。
 団 [ママ] 伊玖磨の「アラビア紀行」には、創造の問題が影を消しているので、ここではあまり論じることがない。作家が民謡を素材に選んだということは、すでに作家としての内部で、審美感なり、音楽的なリアリティ把握にたいしてのある強烈な決定がなされているはずだ。そして作品は、それを示していなければならない。それでなければ、今日、民謡を採りあげるアクチュアリティはなにもないのだ。しかし、この作品はそうした作家の内的な必然性からでたものではなく、民謡にむかう気ままな態度だけが感じられた。十九世紀的なオーケストレーションによる民謡の処理は、すでに耕されつくした大地だ。それに、民謡のテーマを二倍のテンポで処理したり、細かくきざんだりする楽譜上の展開によつて、アラビア(あるいは東洋といつてもよい)の民謡のもつ根源的なエネルギーは切断され、質的に弱いものに変化してしまっている。かれの小品歌曲の場合のアンチームな抒情は好もしいが、このような大編成のオーケストラはそれを傷つける。この曲が、雰囲気描写的な段階にとどまつている部分をみいだしたのは、その傷口をみせつけられたわれわれのせめてもの安らぎである。
 この演奏会でもつとも注目された作品は、黛敏郎の「涅槃交響曲」であつた。これはかれのいままでの仕事のなかで、もつとも独自な世界を定着させた作品であろう。梵鐘のひびきを分析したかれの電子音楽の仕事から発展して、ここでは、それを新しい力学感を感じさせる管絃樂と、お経をヨーロッパの発声法でうたう男声合唱とを自分の言葉に、何かを発言しようとした力作である。この作品には深い感動をおぼえた。しかし、その感動は、曲名の示すような東洋的な静寂感や仏教思想のありがたさからくるものではない。むしろ、逆に妙に官能的で、グロテスクにさえ感じるその新鮮な力強さからくるものなのだ。それは彼の意図とは別なものであつたかも知れない。その意味では、第一部の「カンパノロジー」の部分はもつともすぐれた表現で、独自な世界を力強くひらいたものだ。(ただし、部分的に現れる十二音的なフィギュアは、この作品に内在する独自な世界の密度を弱めていはしないか)。しかし、この作品でもつとも気になる問題が一つある(この点については、秋山が読売新聞紙上の批評を書いた際にもふれたが、切られてしまつていたので、とくに書いておく) 。黛は仏教と近代のおもい切つた結合を試みたわけだが、それは単なる審美感や作家の内部の動機にすぎないという段階では、今日もはや許されないのである。これはかれが必ずしもそうした態度だと断定するのではなく、今日、東洋と西洋との巨大な対決が、わが国の作曲家すべてに課せられた問題であることを考えれば、決して眼をとじていてはならない問題であろう。たとえば、この作品でも、まだ素材的な興味から取れている部分があるのを感じている。ことに最後の声明をうたう部分は、ヨーロッパのメロディの構築法とはまつたく異質なこの東洋の素材を、明確な意識で把握することなく、西洋音楽の流れにのせてしまつているようにおもう。東洋の異質な素材の音楽的処理は、多くの場合、非常に困難である。しかし、この声明の部分でも、この東洋の素材のおどろくべき力強い生命力をより明確な形式で把握しなければ、そこには東洋と西洋の結合、あるいは綜合といつたアクチュアルな問題にはならないし、折衷としての意味しかない作品となつてしまう。この場合でも、かれが声明や和讃の揺りの型などの技法的な追求にも大胆に、そして徹底的にぶつかつていつてほしかつた。そうした東洋の異質な素材を根本的に、技法あるいは表現の問題として解決していないところが見られたのは、何んとしても残念なことであつた。それがこの作品を感覚の表現に流れさせ、審美的な作品としての精彩ぶりに、人を感動させるにとどまつた。しかし、彼の作品にしても、芥川の作品にしても、決して東洋と西洋の一致などというプログラムだけを提示しただけといつてはすまされない大きな問題を含んでいる。この意味では、時代の精神をふまえようとしたはじめての「3人の会」であつた。

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