つまらない仕事とどう向き合うか
仕事は大抵つまらない
労働者の仲間入りをして三年ほどが経ち、その最中では一度転職をして幾分か仕事をっする苦痛を和らげようと試みたが、多少通勤や拘束時間が楽になったばかりで、本質的なつまらなさによる苦痛は日々蓄積されて行くばかりだ。
仕事はどれもつまらない。と言うのは、世間一般に適応される命題ではない。事実、職場の何人かは自分の時間を進んで放棄し、会社へ無給の奉仕を行う。それも、まるでさもこれが生きる喜びですと言わんばかりに生き生きと。
仕事は大抵の人にとってはつまらない。やれ、資本主義はダメだとか、幸福の定義を改めなければと、労働をメタ的に見るようになった瞬間、絶望て的なまでのしらけに苦しむ事になるのだが、そう言う意味では彼らは瓦解した夢の中で生きられて幸せということになるであろううか。
残念ながら、私の世代、特に資本主義が上手く行っているように見えた時代(高度成長期など)を知らない世代にとっては、仕事は概ねしらけの対象なので、仕事は大抵つまらないという言い方は正しいであろう。
では、どう向き合うか?
しらけた仕事をどう見るか。これが現代人の目下の課題となる訳であるが、二つ暫定的な対処方法はある。一つはダメな社員として周囲に諦めさせると言う手段であり、もう一つは消費の快感に身を委ねるかである。
前者は、不経済な存在としての承認を得て、しかし一方で『アリとキリギリス』ではないが楽天的な怠け者であることで周囲のモチベーターとなる手段である。これはもちろん、虚しい姿を露呈する苦しみを伴うが、しかしもとよりくだらない競争に参画することに何の意味があるであろうか。むしろ、こちらから侮蔑的な眼差しを返してやれば良い。我々はより意義深き、文化的な嗜みを一義に生きようではないか。なんて。
さて、消費的な快楽に生きようとした場合、こちらは見た目マシな評価を得られるが、蔑んでいるはずの仕事と同等のものを一方で信奉することとなる。消費者として懸命に働いた対価を、他社の労働に支払うわけだ。外面はなんだか贈与っぽくなるが、どうも薄っぺらい苦役の循環となる。要するに、苦痛を緩和するために資本主義を全肯定した生き方に慰めを得るやり方だ。
私はこの二つの手段に、止むを得ず頼りながら、労働生活を延命させている。どなたか、その他に良い手段があれば、ご教示賜りたい。取り敢えずは、以上の塩梅で幾分かは辛さを麻痺させることができることは確かである。