秋分;第48候・水始涸(みずはじめてかる)
涸れるは枯れる、渇れる、嗄れると通じて、それは水分が抜けていき、いのちが離(か)れる、そうやって水分が抜けると軽くなる、空になって、虚ろと成って、仮の場になるということ。
花を生ける日々はありがたいことに、その感触を手に取ることができる。
ありったけの水分は実に閉じ込め、あとは色づくばかりの木瓜。棘のある枝の素型(すがた)を。紅葉した錦木。割れて顔を出す赤い実。日が短くなり、光合成するクロロフィルのエネルギー効率が悪くなると、生産がストップし、分解されていくため、もともと葉っぱの中に潜んでいたカロチノイドなどの色素が見えるようになり、もみ出るようになる。昔の人はこれを時雨や霜が色を「揉み出す」とみて、それが「もみぢ」となったとさる。銀色の葉は夏場に目一杯のびた枝を剪定した長葉の茱萸、桐の実は実だけとなって、一層軽くなっている、花は吾亦紅、背の高い小菊。
張りを持たせ、横溢していた水が抜けていく。人で言えば初老のような時期。今年最後の命の燃焼の時期へ突入していくその前の。
切ないような「時」を、切られてこの場所へやってきた彼らの終わりを束ねて、一つの虚構を立ち上げる。生を装って活ける。絵空事という言葉があるが、花空事もある。この儚いものが枯れてなお、面影の中で座を占めるように。
また来年も彼らと初恋ができるように。
離れるからこそ、恋しくなるもの。
秋はだから恋の季節だし、ひょっとすると「枯山水」の秘密もここにある。