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8年ですね。

あの日から8年経つということで、なにかしら書かなきゃいけないような強迫観念に駆られていて、とりあえず筆をとってみた。と、何か「仕方なく」書いているような書き出しになってしまったが、これは本当に「仕方なく」なのだ。8年経った今も、感情に整理のついていない部分が多くあり、とてもまとまった文章になるとは思えないから。それくらい、思春期の一大事件だった。

今回は、とにかく思いつくままに、備忘録的に書いていこうと思う。これは、私の震災体験記である。

前もって断っておくと、以下の文章によってあの日の記憶が蘇って不快な思いをしても責任はとりません。

あの日、なにが起きたのか。

あの瞬間、私は学校の階段を降りていた。最初は、たまにくる眩暈がやってきたんだと思った(p波でクラっとくるレベルだから相当大きい)。その後本格的に揺れ始め、上履きのまま走って校舎の外に出た。自分の命が助かったのはわかったが、終わったと思った。散々予期されてきた首都直下型がきたんだと思った。でも、そんなものではなかった。

放課後だったので学校に残っていた生徒は少なかったが、校庭で簡易的な集会が始まった。校長先生から、東北で震度7だと聞かされた。しかしすぐ真顔に戻す。とんでもないことが起きたと。

一方で、やはり小学生とでもいうべきか、「震度7」という聞いたことない響きに、不謹慎だが、少し笑ってしまった。と同時に、歴史に残る地震を経験したんだというある種の興奮も覚えていた。他人事だという感覚がまだ強かった。

テレビで流れる、衝撃の映像たち。

家に帰ると、改めてものすごい揺れだったことを思い知らされた。まず、停電でエレベーターが止まっていた。10階以上を階段で登ってようやく家にたどりついた。食器棚の引き出しは全部開いていた(幸いにも食器は1つも割れていなかった)。スタンド式のCDラックは倒れ、CDと割れたケースが散乱していた。電気もテレビも、当然つかなかった。連絡手段、情報を集める手段は充電の限られたガラケーだけ。とりあえずガラケーを持って下に降りた。

マンションの共用広場的なところにはやっぱり人が多く集まっていた。その中でも同級生の家族に合流させてもらった。

夜には、その家族の車に乗せてもらい、夕食を探した。街は停電で真っ暗だった。最近24時間営業の是非が取り沙汰されているコンビニも、この時ばかりは閉まっていた。駅前を歩いている人はほとんどいないのに、幹線道路は人と車で溢れていた。明らかに異様な光景だった。

夕食を手に入れ家に戻ると、それと前後して母親が5時間ほど歩いて帰宅し、また電気も復旧した。テレビをつけた。そこで初めて全容を知るとともに、数々の映像を目にすることになる。

テレビをつけた瞬間ついていたのは、石油コンビナートが真っ赤に燃えている映像だった。まさに地獄絵図とイメージが重なった。また、都心のターミナル駅が帰宅難民で溢れている映像、郊外の自宅を目指しぞろぞろと歩いている映像も流れた。停電情報も流れた。東北の避難所からの中継もあった。風呂に入るのも忘れて見入った。自分の周りも変わったことは起きていたが、それでもせいぜい停電と電車の運転見合わせくらい。世の中ではもっとすごいことが起きていると思った。しかし、まだ序の口だった。

翌朝、テレビでは前日の出来事がまとめて放送されていた。そこで初めて、津波が街を襲う映像を目にした。それは衝撃という言葉で片付けてしまうことはできないくらい、衝撃だった。波が家を、店を、学校を、車を流していく。数十分前までは普通の生活が営まれていたであろう街を流し去っていく。迫りくる波から逃げるようにアクセル全開で走る車に無情にも追いつき飲み込む。私は、今までただの知識だった「津波」が現実のものとなり、猛威をふるっている映像の数々を、ただただ茫然とみていた。

午後にも新たな事件が起きた。午後のテレビでは原発の話題が中心になっていた。菅さんや枝野さんが焦っている。東電の社長も焦っている。あれこれ指示を出しているらしい。そうしているうちに一部の箱が爆発した。技術的なことはよくわからなかったが、相当やばいことが起きたみたいだということはわかった。チェルノブイリの再来だとなんとなく思い、日本は終わったんだと半分本気で思った。

そのほかにも、埋立地にある住宅街が液状化している映像、次々と中止が決まるバラエティ番組と種々のイベント、ACのCMばかり流れる民放...入ってくる情報全てが異常事態だった。通っていた小学校の卒業祝賀会も中止になり、給食も質素なものになり、卒業アルバムも卒業式までに届かなかった。

日常は取り戻しつつあったが。

GW頃になると世間も少しずつ落ち着いてきた。バラエティ番組も通常通り放送されていた。私自身も中学進学後の新しい環境にも慣れ、順調な生活を送るようになっていた。それでもあの日のことを思い出すと、あの日の映像をみると、東北の人たちの現状を描く番組をみると、胸が締め付けられる思いがした。

思春期という多感な時期に起きた震災、それは間違いなく私を変えた。こういうことを書くと、被災地にボランティアに行くとか、具体的かつ立派な行動を起こす人になったみたいにみえるが、そうではない。今までなんとなく、身の回りのことばかり考え、日常が日常であることを当たり前に享受して生きていたのが、当たり前が当たり前でないことを思い知らされ、そう意識するようになった。無常ってやつだろうか。終わるときは終わるもんなんだと、生き急がなくなった気がする。

かなりの影響を受けた(と思っている)震災だが、映像をみるばかりで、現地で現場を自分の目でみたことはなかったからか、どこが未だに現実に起きたことと受け入れられずにいる自分もいた。特に津波の映像は、本当に現実離れしているように思えた。そこでどうしても自分の目で確かめるべきだと思い、2017年の夏休みに名取市閖上を見学してきた。少し前の情報にはなってしまうが、次回はそのことを書いてみたいと思う。今回はここまで。





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