【第259回】『贖罪 償い』(黒沢清/2012)

 これまでの『贖罪』の4話に共通していたのは、人間同士の不均衡が頂点に達した時、事件は起きるということだった。第1話では夫婦の間に不均衡が起こり、第2話では学校とPTAの板挟みに遭う形で、教師同士にある種の不均衡が起きていた。第3話では兄と妹の間の不均衡であり、第4話は同じく姉と妹の間の不均衡が悲劇をもたらせた。最終話となる第5話では、主人公であるエミリの母親が一人で事件の謎を追ううちに、辿り着いた人物と既に自殺した昔の友人との三角関係の不均衡により、事件は起こったのだと知るのである。

冒頭、エミリが体育館で殺されていると知って、学校へと駆け付ける小泉今日子の鬼気迫る様子が凄まじい。道路の脇にはなぜか無造作にゴミ袋の山が置いてあり、角を曲がった瞬間、自転車と正面衝突しそうになった小泉今日子はゴミの山へ突っ込んでいく。あえて第1話から第4話までの回想場面からは外した場面だったが、最終話にいきなりゴミ袋への突撃を黒沢は堂々と忍ばせるのである。

第4話の最後の3分間で、池脇千鶴から犯人の声が、友愛フリースクールの校長に声が似ていると聞かされた足立麻子はすぐにインターネットで調べるが、写真も映像もその青木という人物が誰なのか不明瞭で、判別出来ない。ここでの不鮮明な映像もホラー映画の様相を呈する。いてもたっても居られなくなった麻子は、列車に乗って友愛フリースクールへと向かう。ここでもスクリーン・プロセスによる風景の嵌め込みが独特の古典的な情緒を醸し出している。主人公はもはや後戻り出来ない運命に足を突っ込んでしまったのである。

山の中にある小さなフリースクール(というよりもプレハブ小屋に見える)に辿り着いた麻子は、影から青木という男を見張るが、異変に気付いた青木と鉢合わせしてしまう。その時の麻子と青木の狼狽ぶりは凄まじい。実は彼らは大学時代、恋人同士だった。声も出なくなった麻子は突然山の中に逃げるのだが、青木も凄い勢いで彼女を追いかける。ここでもまた黒沢映画における追いかけっこが成立することになる。この時の香川照之扮する青木の、反時計回りによる小回りの効いた走り方が随分怖い 笑。しかも一度だけではなく二度までもこの恐ろしいイメージは反復される。

彼は大学時代、ある女性に好意を抱いていたが、青木と麻子の関係が深まったことが原因で自殺してしまう。青木はずっとそのことを根に持ち、今日まで来たと思っていたが、実は3年前に鈴花という別の女性と結婚を果たしていた。だがその鈴花という女性は、大学時代に自殺した女性と面影がそっくりだった。この鈴花役を演じたのが、『大いなる幻影』のヒロインであるミチを演じた唯野未歩子である。『大いなる幻影』から実に13年の歳月が流れている。

青木の感情は勝手にヒート・アップし、ジープに乗って麻子を追いかける場面がまたぞっとするような怖さがある。黒沢映画において、森の中から舗装された道路に出た時には、明らかに車に注意しなければならないのだが、既にバスが行ってしまい、徒歩で次のバス停まで向かおうと一人歩く麻子の元に、青木の乗ったジープが猛烈な勢いで追いかけてくる。そのジープも明らかにスクリーン・プロセスであり、古典的な殺人鬼のように見える青木が殺しの意図を持ってアクセルを踏むも、すんでのところで躊躇し、左にターンしながら小屋の中へ突っ込む。おそらく今作の中で最も金のかかった場面である。ここから青木と麻子の恐ろしい心理戦が始まるのだった。

15年前のエピソードと現在のエピソードの交錯する場面に、事件の真相が転がっているのだが、その場所となった古い屋敷がまた素晴らしい。さり気なく登場する黒沢作品の常連俳優である下元史朗が青木を案内し、そこで青木は事件の真相を知ってしまう。その場に15年ぶりに麻子を呼び出した青木は、信じられない秘密を聞き、狼狽する。やけになった青木は、ここでは自分の手によりゴミまみれになるのである。

ただ事件が起きてから15年、これまでの捜査を担当した嶋田久作に代わって、突如登場した守屋刑事(新井浩文)がいまひとつこれまでの物語の積み上げに対して貢献していないように見える。新井浩文の淡々とした佇まいや話し方は、他の監督の作品の中ではある程度の効果を上げていたが、今作では次第にテンションを高めようとする小泉今日子との間で、上手く調和が取れていないのである。

また第3話に少しだけ出て来た警察内部の様子も、あまりにも奇をてらいすぎて警察内部に見えてこない。明らかに黒沢が90年代に散々やり尽くした警察内部の様子を、簡略化して見せようという美術部の意図が垣間見えるのだが、あそこまで簡略化してしまうとかえってリアリティがなくなってしまう。背景で業者が工事の作業を話していたり、おそらく引越しの作業中だということはわかるのだが、それにしても手を抜きすぎているように見えてしまう。だからこそのラストの風に揺れる半透明カーテンであり、小泉今日子以外に人のいないショットなのだろうと黒沢ファンである我々は理解するが、この作品をただのドラマとして観ていた一般層にはどれだけ伝わったのかは疑問が残る結びとなる。

しかしながら今作ではこれまで述べてきたように、黒沢映画が男性中心の物語から女性中心の物語へと舵を切った重要な分岐点に位置する。この時期の黒沢の一作ごとの実験こそが、『岸辺の旅』から『銀盤の女』、『クリーピー』と新たな全盛期をもたらしたと言えるのである。

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