【第340回】『A.I.』(スティーヴン・スピルバーグ/2001)
近未来のアメリカでは人間の日常生活が監視され、人間に代わってロボットが雑用や労働をこなしていた。そんな中、愛という感情をインプットされた最初の少年型次世代ロボットとして誕生したデイヴィッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)は、彼を開発したサイバートロニクス・マニュファクチャリング社の従業員ヘンリー(サム・ロバーズ)とその妻モニカ(フランシス・オーコナー)に引き取られる。ヘンリー夫妻は不治の病に冒された息子の代わりにデイヴィッドを引き取ることになった。少年は夫婦の愛情に包まれ幸せな生活を送るのだが、次第に自らのアイデンティティに疑問や不安を抱き始める。
スピルバーグがスタンリー・キューブリックと共同で温めていたSF大作。80年代当初、キューブリック=製作総指揮、スピルバーグ=監督の企画として着想された物語は、99年のキューブリックの死により一旦は頓挫。だがスピルバーグはキューブリック遺族の監督起用という強い要望を断れず、その構想段階の企画を掘り起こし、再構築して映画化した。元々は90年代前半の『ジュラシック・パーク』の頃にジョゼフ・マゼロを起用し、テスト撮影も行われたがキューブリックは映画化までにおよそ10年ほどのスパンがかかるために子役が降板。キューブリック自体もスピルバーグ以外の監督に任せるのなら、自分で監督すると当時話していたという。盟友ジョージ・ルーカスの『インディ・ジョーンズ』シリーズと共に、外部の強い要望に基づきメガホンを取った作品だが、天国のキューブリックへ思いを捧げている。
不治の病に冒され、冷凍保存で眠っていて目覚める保証はない息子。彼ら夫婦にはたった一人の子供であり、妻モニカの喪失感を哀れむ夫は一台のロボットを円満な家族に用意する。あるハイテク企業の実験第1号として作られたそのロボットは、人間そっくりの風貌をしているが決して瞬きはしないし、ご飯も食べない。起動の瞬間、飼い主を愛するようプログラムされたロボットの愛情は永遠であり、設定の変更は効かない。もし捨てたくなった時は会社に持ち込み廃棄するしかないのである。この設定を現代を生きる我々に信じ込ませるのは多少無理があるのではないか?ハイテク企業の実験作第1号なら普通は企業内で何度もテストをしているはずだし、こんな精巧で人間そっくりなプログラムを作る会社が、ごく簡単なプログラムの書き換えに応じないはずがない。デイヴィッドは望まれてヘンリー夫妻に引き取られるが、やがて不治の病に冒されていたはずの息子マーティンが奇跡的に回復し、我が家に戻ってくる。そうなるとモニカの愛情はデイヴィッドではなく、マーティンに一手に注がれるのである。
この親の愛情の不在の主題は、これまでに『E.T.』や『フック』で度々用いられてきた。当初人工知能を持ったロボットに対し、母親が教育を施す場面ではスピルバーグ作品の根底にある心の触れ合いを観ることが出来た。今作においては磨りガラスの向こうでパジャマに着替えるデイヴィッドを母親が磨りガラス越しに凝視する場面さえあるのである。これは間違いなくスピルバーグの刻印を持った作品である。だが最初はデイヴィッドを引き取ることに躊躇いを見せていたモニカが彼を受け入れた途端、最愛の息子が帰って来る。ロボットはロボットでありながら実子であるマーティンに嫉妬し、自分のプログラムには書き込まれていなかったはずの食事を勝手に始める。その後も故意にではないが、マーティンを死に追いやろうとしたデイヴィッドは、モニカの怒りを買い、山に捨てられることになる。ここで今作の主題と似たモチーフのジャウム・コレット=セラの『エスター』を思い出したい。あの映画ではエスターがある悪意を持って、家族に危害を及ぼしていた。だが今作ではモニカに向けられたデイヴィッドの思いは悪意ではなく、偶然の過失だと類推出来るのだが、どういうわけか母親は彼を見殺しにする。大体、髪の毛が欲しいのなら母親に一言「髪の毛を1本くれ」と言えば済む話だろう。それをわざわざ真夜中に裁ちバサミを持ってロボットが忍び込むという設定も理解に苦しむ。スピルバーグの脚本にしては隙があり過ぎるのだ。
森の中に捨てられたデイヴィッドを待ち受ける運命は、かつての『太陽の帝国』に非常に近い。生きるためには仲間を見つけなければ生活出来ないが、そこで『太陽の帝国』におけるジョン・マルコヴィッチや『フック』におけるダスティン・ホフマンのような人物として、セックス・ロボットであるジュード・ロウが登場するところで、今作はこれまでの物語とはまるで違う物語へと変容を遂げる。いきなり空から『未知との遭遇』や『E.T.』の空飛ぶ宇宙船のような物体が暗闇の中から光を伴い現れる。彼らに絡め取られ、見世物にされそうだった2人と1体のぬいぐるみは『ジュラシック・パーク』のように森の中を駆け抜けていく。当初はこれまでのスピルバーグ作品同様に、大人顔負けの子供としての精神や肉体を誇示するかに見えたデイヴィッドだが、森に捨てられた瞬間から単なる受け身の盲目的ロボットへと変容する。彼はただひたすらにモニカの愛を求めてあてのない旅を続け、最後は『オールウェイズ』のようにこの世に絶望し海に落ちてしまう。それでも彼は意識を失うその瞬間まで「僕を愛して」と望み続けるのである。ここでのジュード・ロウの最期は暗く物哀しい。『JAWS』では海の中に引っ張られ、殺人サメの犠牲となったのに対し、今度は足を掴まれ宙づりでゆっくりと引っ張りあげられる。ジュード・ロウの手を掴んで離さないなどのアクションが少しでも見えれば救われた気持ちになるが、そんな時もデイヴィッドは自分を捨てた母親を思い続けるのである。
『未知との遭遇』の時点ではミステリアスで未消化な何かを残しつつも、その荘厳な世界観で圧倒したスピルバーグだったが、今作では無理矢理オチをつけようと色々と苦心し、結果失敗している。あの2000年後の宇宙人の上から目線のヒューマニズムは、『シンドラーのリスト』や『アミスタッド』で史実に基づく重厚なリアリズムを通過したスピルバーグが、もはやファンタジーとヒューマニズムの作家と揶揄された80年代には戻れないことを高らかにに宣言する。未消化なものは未消化なまま残した方が良かったはずだし、何よりスピルバーグ映画の脚本にしてはあまりにも細部が練られていない。前半部分は決して悪くなかっただけに、話の飛躍の部分がキューブリックが生きていればと思わずにはいられない。具体的に言うならば、後半のジュード・ロウが巣食うディストピアの性産業の描写や造形などは、スピルバーグには極めて難しかったと言わざるを得ない。
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