【第627回】『インフェルノ』(ロン・ハワード/2016)

 大観衆を前に繰り広げられる大富豪の生化学者バートランド・ゾブリストのスピーチ。このまま地球の人口が増え続ければ、食料は底をつき、環境は破壊され、やがて人類は滅亡すると云うカリスマ学者の熱を帯びた警告。今このスウィッチを押せば世界の人口の98%は消滅する。その狂気じみた危険な警告を食い止めようと、世界保健機構(WHO)と警察はゾブリストの行方を懸命に追っていた。だが男は追っ手を交わし、鐘楼の上によじ登ると、そこからあっさりと身を投げる。かくしてスウィッチの在りかがわからなくなったWHOと監視対応支援(SRC)チームの作戦は振り出しに戻る。一方その頃、ハーヴァード大学の宗教表象学者であるロバート・ラングドン教授(トム・ハンクス)が目を覚ますと、そこには信じられない光景が拡がっていた。眼前の光景はぼんやりと霞み、右側のコメカミに強烈な痛みが走る。その様子を心配そうに見つめるシエナ・ブルックス医師(フェリシティ・ジョーンズ)の姿。自分の身に何が起きたのか?なぜ病院のベッドの上にいるのか思い出せないラングドンは、シエナ医師が開けたカーテンの向こうにイタリアのフィレンチェの建造物を見つける。ラングドンが目覚めた瞬間、追ってくる殺し屋ヴィエンサ(アナ・ウラル)。病み上がりのラングドンはシエナに介抱されながら、開巻早々、命を付け狙う殺し屋から逃げる羽目になる。一体自分はフィレンチェで何をしているのか?教授の記憶を取り戻す旅が始まる。

 いわゆる「ロバート・ラングドン」シリーズの記念すべき3作目(原作では4作目)。第一容疑者と疑いをかけられた『ダ・ヴィンチ・コード』、イルミナティの暗号解読の切り札としてローマに呼ばれた『天使と悪魔』を経て、今作は一度見たものは絶対に忘れない表象学者の海馬が狂い、数日間の記憶を失うところから物語が始まる。記憶の全喪失から、様々なアトラクションを経て、記憶の奪回とともに全ての謎が解き明かされる物語の構造そのものは、『ジェイソン・ボーン』シリーズと真っ先に比較されるに違いない。目覚めた瞬間から、何者かに命を付け狙われる異様さに加え、女と共に逃げていく過程も『ジェイソン・ボーン』シリーズとそっくり瓜二つだと言える。だが原作者ダン・ブラウンの背景描写の緻密さは『ジェイソン・ボーン』シリーズをも凌ぐ。前作『天使と悪魔』ではヴァチカン市国及びローマの歴史的建造物が数多く登場したが、ダン・ブラウンは今作の背景にフィレンチェとヴェネチアを配し、前作と並べればイタリア観光ガイドの決定版的な趣がある。フィレンチェではドローンと追いかけっこを繰り広げたボーボリ庭園の印象的な緑を始め、バディア・フィオレンティーナ教会、ピッティ宮殿、ロマーナの門、ヴァザーリの回廊など知的欲求を満たす伝統的な建造物の中でアクションが繰り広げられる。中でもヴェッキオ宮殿の五百人広間でのヴィエンサやクリストフ・ブシャール(オマール・シー)ら追っ手と繰り広げられるアクションが素晴らしい。「天国の25」と云う暗号の解読先となるサン・ジョバンニ洗礼堂、ヴェネチィアに場所を移してからも、サン・マルコ大聖堂を前に重大な離別の時が繰り広げられる。

 『007』のジェームズ・ボンドには常にセクシーなボンド・ガールたちが世界一の色男スパイを誘惑するが、今作では40代後半独身のロバート・ラングドン教授の初めてのロマンスが仄かに香る。徐々に記憶を取り戻す彼を再び迷宮へと誘う権力者たちの罠から、あくまで知性と理性を使って物事を律するロバート・ラングドン教授の沈着冷静ぶりは、いわゆるアメコミ目線で超人的スペックを持ってしまった近年のキャラクターのアメコミ化とは一線を画す。『天使と悪魔』評で指摘した閉所恐怖症設定の破棄も今作ではしっかりとフォローされる。後半明らかになるもう一つのロマンスも、主人公と遠く離れた女性とのロマンスに呼応した知的な関係を築く。原作では4本目に至っても、ダンテの長編叙事詩である『神曲・時獄篇』からボッティチェリの絵画を介し、現代社会の病巣を鋭くえぐり出す原作者ダン・ブラウンのイメージの発展は見事というより他ない。ロン・ハワードの映画はしばしば結末に向けたカウント・ダウン形式を採るが、今作でもあらかじめ24時間に設定された作劇の妙が物語を駆動させる。前々作前作と世界中のカトリック教徒の怒りを買ったダン・ブラウンは、今作でも黒死病(ペスト)の流行がルネッサンス勃興を促したという恐るべき仮説を立てる。個人の合理的な判断を断罪し、あくまで社会的な信義を重んじる男・ロバート・ラングドンの判断はトム・ハンクスならではの知的で少しおどけた結末を迎える。2016年のトム・ハンクスは図らずもスピルバーグの『ブリッジ・オブ・スパイ』、クリント・イーストウッドの『ハドソン川の奇跡』、そして今作で三度アメリカの正義と自由を代弁する役柄を演じた。現代アメリカが潜在的に欲しているのは、バラク・オバマでもヒラリー・クリントンでもドナルド・トランプでもなく、まさにトム・ハンクスのような大統領ではないだろうか?

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