【第246回】『降霊』(黒沢清/1999)
1999年の黒沢は、シリーズものでも短編でもなく、それぞれ別々に企画のあった3本の長編映画を監督した。『カリスマ』『大いなる幻影』、そして今回の題材となる『降霊』である。『カリスマ』は日活製作でツインズからオファーがあり、『大いなる幻影』は自らが教鞭を執る映画美学校の第1期生の実習として作られた。『降霊』は関西テレビの田中猛彦プロデューサーに、マーク・マクシェーンの『雨の午後の降霊術』を提示され、そのテレビ用のリメイクということで製作された。とはいえ、1961年の作品ということで物語の柱となっていた夫婦の少女誘拐がなくなり、少女の両親も出て来ない。不運な偶然の要素を巧みに織り交ぜることで、原作とは違うテイストを醸し出している。
『カリスマ』も『大いなる幻影』も黒沢映画の中では極めて難解な作品と言えるだろう。黒沢のフィルモグラフィを俯瞰で眺めた場合、『CURE』から『大いなる幻影』までの世紀末に向かう流れが一番厄介でややこしい。(人によってはロマンポルノ期の方がややこしいと言う向きもあるだろうが・・・)これら4作に共通するのはプログラム・ピクチュアを破壊し、まったく新たな映画を模索しているところにある。プログラム・ピクチュアとはいわゆるB級映画と呼ばれる作品とも無関係ではない。それは会社側の要請により1時間30分に収まっているのではなく、ジャンルの定型を用いることで、幾つかの説明を巧妙に回避し、1時間30分に勝手に辿り着いてしまうのである。人はそれをプログラム・ピクチュアまたはB級映画と呼ぶのである。黒沢の崇拝するフライシャー、シーゲル、ペキンパーなどの映画はこのプログラム・ピクチュアに属している。
黒沢清は過去も現在も、自分は作家性のある監督ではなく、職人だと公言して憚らない。いったいどの口がそんなことを言うのかである 笑。確かに『勝手にしやがれ!!』シリーズを観れば、明らかにプログラム・ピクチュアに奉仕する職人監督だったが、『カリスマ』の語りの難解さは、もはや職人監督の技巧の範疇ではない。90年代を通して、黒沢はある種の量産体制の中で、自分の撮りたい欲求と会社側の約束事との妥協点を巧妙に見出していたのは間違いない。
映画は「娯楽」か「芸術」かという議論は、おそらく1895年から世界の端々で、何億回何兆回も繰り広げられた議論だと思うが、2015年現在、映画は「娯楽」か「芸術」かという議論には未だに答えが出ていない。私が敬愛する山根貞男という偉大な批評家は、かつて東京藝術大学内において、2年間だけ授業を受け持ったことがある。その授業とは、普通の映画の中から面白さを伝えて欲しいというテーマだった。この普通の映画の定義とはいったい何だろうか?まず山根先生ということで、日本映画だけに限定される。次に加藤泰や鈴木清順や神代辰巳の映画は直ちに回避される。ではなぜ加藤泰や鈴木清順や神代辰巳の映画は普通の映画ではないのかという問題はここでは問わない。各々が彼らのフィルモグラフィを実際に観て、映像から漂う匂いを嗅げば明らかである。
誤解を恐れずに言うならば、黒沢清という監督は実にしたたかで頭の良い監督である。それは商業映画であったにっかつロマンポルノで受けた抑圧の結果であり、一時は兄貴と慕った伊丹十三から受けた迫害のトラウマでもあると言っても過言ではない。それ以後の黒沢は、一旦は自分の欲望を必死で抑えようとするのだが、撮影現場ではその欲望がどういうわけか噴出するのである 笑。90年代を通して、そういう確信犯へと実にゆっくりと変貌を遂げるのである。
『大いなる幻影』の95分と『降霊』の97分とはたった2分の違いだが、この2つの映画を決して一緒にしてはならない。『大いなる幻影』は台詞は最小限に留め、撮影は長回しを多用し製作された。これはハリウッド映画のような言葉が時間を制する映画とは違い、あらかじめ何分の映画になるのかは皆目見当がつかないのである。下手したら10分の短編にしかならないし、もしかしたら5時間の長編になるかもしれない。そういう無計画な即興性で撮られたマテリアルを編集で切り貼りしたところ、偶然95分になったというのが『大いなる幻影』の真相である。しかしながら『降霊』の97分はそれとは一線を画す。今作はあらかじめ2時間ドラマの枠で製作され、実際に97分というスポンサーのCMを入れてぴったりな枠組みに見事にハマったのである。ひとは結果だけを観て、95分とか97分とか言いがちである。けれどその過程を観て欲しい。
効果音技師の克彦(役所広司)と純子(風吹ジュン)の夫婦は、郊外の一軒家で慎ましくも幸せに暮らしている。子供はいないが、2人の信頼は厚い。黒沢映画においてこの夫婦の関係性が出て来たのは、『復讐 運命の訪問者』の哀川翔と大沢逸美からである。『CURE』の役所広司と中川安奈や、『蜘蛛の瞳』の哀川翔と中村久美もそうだが、黒沢映画において、ある時から急に出て来た夫婦の関係性は、ここで一つの終着点を迎えることになる。純子には霊を感じる特殊な力があった。彼女は霊媒としての能力で糊口を凌ぐが、環境を変えたいからとファミレスでのバイトを決意する。しかしバイト初日に来た客(大杉漣)の背後に霊の姿を見てしまった純子はあっと言う間にファミレスを辞めてしまう。
役所広司扮する克彦は、彼女の思いつきでの行動や相談なしでの辞職を咎めようとしない。妻の霊視能力に対して一定の理解があるからであり、彼はまったく見えないが、だからといって見える人間を一切否定しようとしないのである。この夫婦の在り方に対して、黒沢は何層ものドラマを用意するのである。
ふいに挿入される場面、公園で緑色のワンピースを着た少女に若い男が話しかける。最初は見知らぬ男に警戒した少女だったが、母親の入院という狂言により、あっさりと車に乗る。その場面がやがて夫婦の間に波紋をもたらしてゆく。唐突に出て来た森の中の追いかけっこは明らかに黒沢の刻印が見える。女の子はある箱の中に隠れ、それを知らずに主人公は家まで持ち帰る。この偶然の連鎖が、やがて夫婦に決定的な亀裂をもたらすことを2人はまだ知らない。
やがて強い風が吹き、雷鳴が轟く夜に事件は起こる。強い風にもかかわらず、開け放たれた窓が既に何かの予兆にも感じられるが、プログラム・ピクチュアの定型として、嵐の晩に決定的な事件はいつも起こるのである。少女がどうして死んだのかは今ひとつはっきりしないが、それでも物語は先へ先へと急ぐ。車に乗った2人の姿を前方から捉えたショットが提示される時、もはや既に夫婦は逃れることの出来ない運命に足を踏み入れているのである。
『CURE』『ニンゲン合格』『カリスマ』に続く、ゲイリー芦屋との音楽の実験はここで新たな局面を迎える。それは恐怖演出を2倍にも3倍にもするシンプルな音響にある。もはや音楽ではない、少女の幽霊が既にそこにいることを伝える不快なノイズ音。エコー処理によりバッド・トリップ体験のような吐き気を催す不快な音楽。そこにはベタ敷きのストリングスを好んだ90年代初頭〜中期の黒沢の面影はまったく感じられない。
映画の冒頭、霊体験や予知能力を発揮するのは風吹ジュンだけなのだが、中盤以降、少女の死から役所広司にもその体験が影響を及ぼしていく。『CURE』でも『カリスマ』でも最後には常人離れした恐怖を身につけてしまった役所広司が、今作では静かにスピリチュアルな体験をすることで、夫婦の破滅を受け入れることになる。その予兆になった少女の霊の手のひらがあまりにも怖い。まるで『スウィート・ホーム』の焼き爛れた刻印のように、彼女は自分の存在証明を役所広司のTシャツに記述する。もはや哀川翔扮する祈祷師でさえ救うことが出来なかった夫婦の災いが、やがて悲劇を生む。特殊能力を持つ者の悲哀は短編だった『木霊』の世界観にも近い。空間を移動する人物の動線を含め、あまりにも素晴らしい97分間に息を呑む。今作は『勝手にしやがれ!!』シリーズ以上の野心的なプログラム・ピクチュアである。ホラー映画であり、フィルム・ノワールとして繰り返し観られる耐性を誇る。
今作はフランスで大絶賛され、海外においてはテレビ作品でありながら黒沢清の代表作に位置付けられている。結局のところ、彼らはその作品が映画として撮られようがテレビ作品として撮られようが、実習制作として撮られようが、あまり気にしない。『復讐』のあたりから盛んに用いられた夫婦の物語もここで一旦帰結することになる。それは黒沢が夫婦の物語の得意な監督というレッテルを極端に嫌がったからである。10年近く封印した夫婦の関係性が『トウキョウソナタ』で再び溢れ出し、新作『岸辺の旅』では夫婦の関係に正面切って挑むのである。