【第293回】『光陰的故事 指望』(エドワード・ヤン/1982)
1980年代初頭、台湾映画界は瀕死の状態にあった。その理由は同じ中国語圏の映画である香港映画、中国映画の波がどっと押し寄せて来たからである。台湾においてもやはり人気なのはキン・フーやツイ・ハークの映画であり、その看板となるショウ・ブラザーズやゴールデン・ハーベストの映画であった。その結果、台湾映画界の製作本数も観客動員数も激減し、母国の映画産業は瀕死の状態にあえいでいた。現状を打破すべく、台湾映画界は構造改革に乗り出した。80年代初めに当時行政院新聞局長だった宋楚瑜を中心として、政府が台湾映画の芸術性や国際性を高めるような一連の改革に乗り出した。改革の一環として、党営企業である中央電影公司に小野(シャオイェ)、呉念真などの若手スタッフを登用し、それらスタッフが採算にとらわれない映画づくりを模索し始めたことが運動の機運となったのである。
そして最初に撮られたのが4人の若手監督による記念すべきオムニバス作品『光陰的故事』である。日本語では時の物語とも言われる今作は、1960年代から1980年代までの台湾の激動の時代をそれぞれ、幼年期、少年期、思春期、青年期の4部構成で据えたオムニバスとなっている。今作は国の公的資金を得て、台湾の映画会社「中央電影公司」により製作され、タオ・ドゥーツェン、エドワード・ヤン、クー・イーチェン、チャン・イーというまったくの若手監督を4人起用している。しかもそのうち3人は、海外の映画環境で育ち、台湾に帰国した帰国子女であった。彼らは旧態依然とした台湾映画界にとっての異端児でもあったのである。
その中でもエドワード・ヤンというのちに世界的作家となる人物がいたのが実に興味深い。1947年、上海に生まれた彼は、2歳のときに家族で台湾・台北へ移住する。マンガとロックと共に青春時代を過ごすが、当時の台湾では文化的な職業へ就くことが難しく、芸術家への道をあきらめ、国立交通大学で電気工学を学ぶ。その後アメリカへ渡り、フロリダ大学でコンピュータ・デザインの修士号を取得。やがて映画製作に興味を持ち、南カリフォルニア大学の映画コースに入学するが1年で中退。1974年から81年までは、ワシントン州シアトルでコンピュータ・デザインの仕事をして生活をしていた。
彼が一度は諦めた映画監督へ進むきっかけとなったのは、シアトルの映画館で見たヴェルナー・ヘルツォークの『アギーレ・神の怒り』であり、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの映画群だった。1981年に台湾へ帰国し、南カリフォルニア大学で友人だった映画監督のユー・ウェイエン(余為政)の監督デビュー作『一九〇五年の冬』で脚本と製作助手を担当し、同年、シルビア・チャンが企画した二部構成のテレビドラマシリーズ『十一個女人』の1話「浮草」の監督を務める。そして満を持して、今作の第2話に取り掛かることになる。
今作のエピソードは基本的に男性を主人公にしたものであるのに対し、エドワード・ヤンが手がけた第2話「希望」だけが例外的に女性をヒロインに据えた物語である。自分より背の小さな、黒縁眼鏡が印象的な男の子と家までの道を歩く少女は、その男の子に異性としての興味はないが、それに対し男の子は明らかに小芬に好意を持っている。彼らが2人並んで歩く脇を、軍服を着た男たちが自転車で通り過ぎてゆく。時は60年代〜70年代、台湾が農業国から工業国へと成長していく分岐点となった時代である。
小芬は母と姉と3人で暮らしているが、姉は母親に反発し、予備校にも通わずプラプラしている。妹との会話も少なく、急に大人びた姿になり、色々と遊んでいるらしいことが推測出来る。映画は小芬が少し大人になるひと夏の成長の過程を描いた物語である。夜中に突然生理になり、母親と姉を呼ぼうとするも、2人はいない。小芬が2人の名前を大声で呼んだ後、部屋の中の無人のショットが重なり、後のエドワード・ヤンに続く冷たい空間が提示される。彼女は大学生の下宿人に淡い恋心を抱くが、その思いがなかなか伝えられない。裸で母親の手伝いをする大学生の汗だくの上半身を凝視し胸をときめかす。当たり前の少女の初恋があった。そこにビートルズの『愛こそすべて』が流れ、ベトナム戦争のテレビ映像が絶妙に交差するエドワード・ヤンのバランス感覚が素晴らしい。
ある日小芬は意を決して、下宿人の大学生に宿題を教えてもらおうと扉を叩きそうになるが、そこで聞きなれた女の声を耳にする。窓ガラスをそっと開けると、そこには大学生と親しげに話す姉の姿があった。エドワード・ヤンは処女作となった今作で早くも、言葉にならないイメージを幾つも積み上げる。少女から大人に成長していく小芬の思い、彼女より一足早く大人になった姉の思い、そして小芬に対して恋心を抱く黒縁眼鏡の少年の決して交わることのない思い。それらふいに宙をかすめるだけの叶わない願いだけが、しっかりとフィルムに焼き付いている。
クライマックスで少年は「乗れない時は自転車に乗れたら、どこにでも行けると思っていたが、いざ乗れるようになると、行きたいところが見つからない」とつぶやく。少年時代の甘酸っぱい思い、彼女が自分よりも先に大人になってしまった焦燥感、これからの時代に対する苦々しい思いがその台詞には全て内包されている。どうしようもない運命に翻弄される悲劇の男と、淡い思いが叶わぬまま終わる女の主題は、今後のエドワード・ヤンのフィルモグラフィを考える上であまりにも興味深い。当時35歳だったエドワード・ヤンの恐るべき短編デビュー作である。
今作の歴史的成功を踏まえ、翌年台湾は『光陰的故事』に続き、若手監督を4人起用し、『坊やの人形』を撮る。そこには若き日の侯孝賢も含まれていたことが、後の台湾映画の歴史を支えることになる。侯孝賢、楊徳昌、この2人が世界の映画史を引っ張っていくのは、このほんの数年後の出来事である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?