【第621回】『ジェーン』(ギャヴィン・オコナー/2016)

 1871年ニューメキシコ準州、ジェーンはまだ幼い娘と共に、簡素で殺風景な部屋で暮らしている。女2人のベッドの中、母親ジェーン・ハモンド(ナタリー・ポートマン)は娘に絵本を読み聞かせる。太古の昔、森の中には逆さまの木があり、その幹の中に入ると、どんな悪人でもすぐに善人になったと。「その木に入れば、善い人も悪い人になってしまうの?」という子供らしい問いに対し、母親は少し考えた後、「ならないわよ」とはっきりとした口調で答え、娘と共にまどろみの世界に入る。この逆さまの木(upsaidedown Tree)のフレーズは今作の根幹を成す重要なテーマであり、哲学である。遠く離れた街へ向かい、毎日帰ることのない夫ビル・ハム・ハモンド(ノア・エメリッヒ)の帰りを待つ妻は、遠くから聞こえる馬の蹄の音に聞き耳を立て、窓の外に帰宅した最愛の夫の様子を笑顔で見つめている。だが次の瞬間、馬に跨ったはずの夫ハモンドの姿勢はだらりと垂れ下がり、かろうじて乗っている様子で帰宅を果たす。夫の背中には数発の弾が貫通せすに神経の脇に燻っている。すぐに応急処置で弾を取り出そうとするジェーンの焦燥は無理もない。ここで夫ハモンドに死なれてしまえば、たちまち娘と暮らす一家の生活は露頭に迷う。妻は戦場の傷を取り出し、火薬で消毒する。19世紀の民間療法ではこの程度の処置が関の山だったのだ。男は朦朧とした記憶の中、電流が走るような激痛の中を、アルコールを頼りに誤魔化している。「娘と一緒に西部へ逃げろ」そうはっきりとした口調で妻に告げた後、激痛の中しばし眠りこける。娘は夫婦に迫り来る試練など知る由も無いまま、庭先で一人遊び回る。

ジェーンが縋るべきは賄賂で堕落した悪徳警官ではなく、元カレのダン・フロスト(ジョエル・エドガートン)しかいない。娘を近所のおばさんの家に預けると、少し離れた所に住むフロストの農場を訪れるが、彼は猟銃をかつて愛したはずの女に向ける。「二度と顔を見せない約束だろ」と言いながら銃を降ろす男も、よそ者の到着を恐れる隠居者として描かれる。2人が愛し合った若き日の楽しい青春の日々を、あの忌々しき南北戦争が引き裂く。北軍の兵士として戦地に赴いたフロストは南軍の兵士を次々に殺したかどで勲章を持つが、最後には南軍に捕らえられ、戦争終結後から3年間、捕虜として強制労働させられる(この辺りの描写の信憑性はどうも疑わしい。)無事、故郷に帰ったフロストはそれから愛したジェーンを探し回るが、彼を待つはずの女の姿は故郷にはない。戦争による長きに渡る不在から夫が帰ると、既に妻には別の男がいるというのは古今東西様々な映画で用いられたメロドラマの定型に違いない。妻は南北戦争終結後も甲斐甲斐しく愛する男の帰りを待ちわびたが、悪人ジョン・ビショップ(ユアン・マクレガー)の罠に嵌る。その穴から救出してくれたのが、腐敗した悪人たちの集団の中で唯一、人間の心を持ち合わせていたビル・ハム・ハモンドだったのである。原題の『JANE GOT A GUN』というタイトルは幾つかの映画史的記憶を纏う。1917年にジョージ・M・コーハンが書いた戦意高揚歌『Over There』の冒頭の「Johnny,Get Your Gun」のフレーズは『アニーよ銃を取れ』(Annie Get Your Gun)に流用され、ダルトン・トランボの70年代初頭の忘れ得ぬ傑作『ジョニーは戦場に行った』(Johnny Got His Gun)では多分に風刺的な意図で用いられた。『JANE GOT A GUN』はフェミニストの目から見つめた女性による女性のための闘争としての西部劇に他ならない。

銃を練習する場面で、最初は短銃を打つが一向に弾が当たらず、猟銃に持ち替えた途端、命中する描写や陰惨なクライマックスなど、今作は真っ先にクリント・イーストウッドの『許されざる者』の影響が挙げられる。地形を利用した理論武装は『荒野のストレンジャー』であり、南北戦争の傷跡を引きずる様子は『アウトロー』にも見える。床下に潜む様子や、簡単に死なない「死にゆく人」と空間を共にする様子は、クエンティン・タランティーノの自己流西部劇の匂いも見え隠れする。ジョン・フォードやアンソニー・マンの時代の西部劇やマカロニ・ウエスタンにおいては、常に男性が女性を奴隷のように扱う男性優位の物語だったはずである。アメリカ合衆国で女性の参政権が認められたのは1920年であり、西部劇の主要な時代(19世紀、1800年代)には男性と女性の機会平等などない。例えば1950年代のアメリカを闊達に描写したトッド・ヘインズの『キャロル』や、1920年代のデンマークを描写したトム・フーパーの『リリーのすべて』など、20世紀の作品でもまだ女性たちは人権という当たり前の自由を得るためにもがき苦しんだ。今作は女性に人権など無かった時代のジェーンの復讐譚なのだ。アメリカの西部劇は『許されざる者』で正調なな西部劇の幕引きをした後、徐々にではあるが、だが確実に女性優位の西部劇のロジックを紡ぐ。ジョナサン・カプランの『バッド・ガールズ』やサム・ライミの『クイック&デッド』、コーエン兄弟の『トゥルー・グリット』がその典型例である。追われる者となった力なき母は昔の恋人に縋りながら、やがて母親として自立を果たす。回想シーンでは声色を変えつつ少女を演じたポートマンの女としての柔らかさは威圧感を伴った母親としての強さに代わり、南北戦争の英雄を妻のように従えながら閉鎖的な田舎町から自由の街・西部へと向かう。今作におけるナタリー・ポートマンの凛とした佇まいは、まさにこのフェミニスト視点の西部劇の系譜上に現れた力作に違いない。

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