【第330回】『太陽の帝国』(スティーヴン・スピルバーグ/1987)
1941年、クリスマスを迎えた上海。英国租界の邸宅に両親と暮らすジム少年(クリスチャン・ベール)は、学校の勉強よりも空を飛ぶことに心を奪われていた。上海にも侵略しつつあった日本軍の「零戦」のパイロットになることが夢だった。両親とともに出かけた仮装パーティもジムには退屈で、お気に入りの零戦の模型飛行機を片手にパーティ会場から抜け出し、野原へと出た。そこには撃ち落とされた日本軍の戦闘機が無残な姿をさらしていた。ジムはコックピットに入り、いつしか自分が大空を飛ぶ姿を思い描く。迫ってくる戦争を前に、ジム一家も上海から脱出する準備を始めたが、時すでに遅く、日本軍が怒濤の如く市街に進攻してきた。砲弾、銃声の飛び交う中、両親と離ればなれになってしまったジムは1人で生きていかなければならないことを、身をもって悟る。
SF作家であったJ・G・バラードの自伝的小説を基にした映画化作品。日本軍が上海に侵攻し、当たり前に思えた裕福な生活から一転、まるで捕虜のような孤児にまで落ちる中で少年が成長する姿を描く。このジム少年を演じるのは若き日のクリスチャン・ベールである。他にも伊武雅刀、片岡孝太郎、ガッツ石松など日本人スタッフも多数参加する他、端役のデインティーを若き日のベン・スティラーが演じている。
若い頃、ジム少年は裕福で周りの人間とは階級の違う生活を送るのだが、本人はそのことをあまりよく理解していない。そのことを端的に示す車の座席から物乞いの中国人を凝視する演出が素晴らしい。ジム少年にとって彼がなぜ道端で物乞いをしているのかわからないのだが、やがて同じような境遇に自分も落ちることになる。彼のパイロットになる夢を表した撃墜された戦闘機のコクピットに入る場面も一瞬で全てを雄弁に語る。彼にとって日本人というのは憧れの存在であり、では中国人は何なのかということを考えるまでには至っていない。率直に言って彼は戦争そのものの敵味方の力関係を理解しておらず、大人の思惑や歴史の激動もまったく頭に入っていないのである。
そんな彼が否応なしに歴史の只中に放り込まれる場面が凄い。スピルバーグの映画では夜の闇の中で起きている子供の姿があり、じっと窓の向こうを凝視している。光の点滅に触発され、こちらもライトで照らし返した途端、日本軍の上海領土侵略が始まるのである。ここでも『未知との遭遇』や『E.T.』のように主人公は光に触発され、こちら側からも何か返事を返そうと働きかけるのだが、それが悲劇の呼び水となるのである。その後のエキストラを大量に用いた逃亡の場面は圧巻である。父親とはぐれ、また母親ともはぐれることになったジム少年の手をもう一度引っ張ろうとするものはいない。その後の家政婦の平手打ちの場面も残酷と言えば残酷だが、生きることに必死な上海の人々の悪意がジム少年に降りかかる一連のシークエンスは息を呑む。自転車を盗られ、身包みを剥がされ、飢えに苦しんでいるところを救ったのは、ベイシー(ジョン・マルコヴィッチ)とフランク(ジョー・パントリアーノ)の2人のアメリカ人であった。
ある夜、2人を邸宅に連れてきたところを日本軍に襲われ、ジムら3人は捕虜収容所へと送られる。収容所では両親の友人であるヴィクター夫人(ミランダ・リチャードソン)と出会うが、彼女自身ももはや自分が生き残るためだけに必死だった。やがて、ジムら捕虜たちは蘇州の収容所へと移されていく。そこで知り台ったローリング医師(ナイジェル・へイヴァース)から、どんなことがあっても最後まで生き延びろと教えられるのであった。裕福なブルジョワの家庭で生まれ育った人間がこんな劣悪な環境で生きて行くだけでも奇跡のようなことだが、唯一救いだったのは彼がまだ幼い少年だったことであろう。ベイシーとフランクだけでなく、ローリング医師も彼に目をかけ、教育を施してやろうとする。ここでもトリュフォーの『野生の少年』のように、貧しい環境に身を置いた少年に対しても教育の機会は平等に与えられている。しかし生きることに精一杯なジム少年はローリング医師の言うことを聞かず、蘇州の収容所の中で着々と自分の居場所を築いていくのである。
そんな中で芽生えた、自分と同じように空を飛ぶことに憧れる日本人少年(片岡孝太郎)との柵を介した友情が育まれる描写は、今作の中でも最も感情移入する名場面であろう。戦争というのは大人と大人の思惑に縛られた過酷な争いに過ぎず、子供たちは相手が日本人だからとか英国人だからとかではなく、人間として平等に見ることが出来る純粋な心を持っている。彼らの心は同じ飛行機乗りへの憧れを共有し、だからこそ戦争の下でもアイコンタクトだけでコミュニケーションが取れるのである。中盤、イノシシの罠を仕掛けるために日本軍の領土に侵犯したジム少年がナガタ軍曹(伊武雅刀)に見つかり絶体絶命となるところを、片岡孝太郎は咄嗟のアイデアで救うことになる。しかし確かに芽生えていた2人の友情を歴史が無残にも引き裂いていく。
クライマックスの戦火の描写はなかなか迫力があるものの、中国側、日本側、そしてイギリス側の理屈全てを平等に描こうとするあまり、そのどれもが中途半端になったのは否めない。そもそも日の丸特攻隊が収容所に入れられていた捕虜の傍から飛び立とうとするのはあまりにも突飛な発想であり、戦争というのはそもそもミニチュア的発想では描けないはずである。伊武雅刀のラスト・シーンのクリスチャン・ベールとの触れ合いも今ひとつだが、それ以上に片岡孝太郎の悲惨さがいつ観ても胸を打つ。それと同時に第二次政界大戦に翻弄された一人の英国少年を描いた物語としては成立しているが、日本人としてはやや納得の出来ないものも残る。天皇のため日本国のためと玉砕覚悟で特攻隊として任務につく兵士たちの脇で、ジム少年の金網越しのボーイ・ソプラノは何度観直しても涙を拭うことが出来ない名場面である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?