【第614回】『嘘の心』(クロード・シャブロル/1999)

 ブルターニュ地方の海岸都市、自然豊かな街並み、海の見える半島の前に佇む湖畔の小さな家。画家ルネ(ジャック・ガンブラン)はかつては人気の絵描きだったが、今はこの地でひっそりと絵画教室を開いて糊口を凌いでいた。10歳の少女エロイーズはルネの教室の生徒として、クレヨンで黙々と絵を描いている。その様子を少し離れたところから鉛筆でスケッチするルネの姿。絵の中のエロイーズは晴れやかな表情をしている。裏口の石段から彼女を見送るルネ。時刻は午後5時を回ろうとしていた。一方その頃、森の中ではヴィクトールとレティシアの兄妹が森の中を散策していた。突然、前を歩いていた妹レティシアの姿が視界から消え、足早に歩くヴィクトール。やがて妹の姿を発見した時、彼女は時が止まったかのように硬直している。その視線の先には10歳の少女エロイーズが無惨な姿で横たわっていた。彼女の首には首を絞められた跡があり、強姦された可能性も捨てきれない。彼女が絵画教室のレッスン直後に殺されたことから、女警部ルサージュ(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)はルネを容疑者と見なし、付近の住人らも彼に疑惑の目を向ける。画家ルネには、最愛の妻ヴィヴィアンヌ(サンドリーヌ・ボネール)がいた。夫の夢に人生を託しながらも、看護師として夫婦の日々の生活を支える妻の夢は、夫の復活した姿を見ることに他ならない。ある事件をきっかけにして、片足に重傷を負ったルネはそこから長きに渡るスランプに陥る。夫の創作意欲を掻き立てるために、手付かずの自然の残るブルターニュ地方の海が見える手狭な一軒家に引っ越してきた夫婦だったが、夫ルネは子供に絵を教えるばかりで、自分の描きたい絵をちっとも描こうとしない。それでも妻は献身的に夫を支えようとする。

妻の帰りを待つ夫ルネは、珍しく美しい海岸線の絵を描こうとするが、友人が親しげに話しかけたところで、無情にも光は明るい青から黒へと姿を変える。邪魔が入らなければと鬱々とした想いを抱える彼の眼前を、トレーニング・ウェア姿の男ロラン・デモ(アントワーヌ・ド・カウンス)がゆっくりと通り過ぎる。運動が好きでアクティブなジャーナリストであるデモと、部屋に引きこもりがちな芸術家肌のルネの対照的な描写は、シャブロルの原点となった『いとこ同志』の要領の良いポールと不器用なシャルルの関係を想起させる。ロラン・デモは右派左派両方の新聞に論評を載せ、パリでTV番組を持つ名士であり、去年の今頃、ヴァカンスで足をケガしたところをルネの妻ヴィヴィアンヌに助けられる。その時無償で助けたことがきっかけになり、デモは新しい本をヴィヴィアンヌに次々に献本する。幼女が開巻早々殺される展開は、90年代に流行したサイコ・サスペンス・スリラーの定石だが、シャブロルはその事実に蓋をして、クライマックスまでミステリーの暗部を見せない霧のかかったフィルムノワールのイマージュを持続させる。ある地方都市で起こる陰惨で猟奇的な事件は『肉屋』を彷彿とさせる。部屋に閉じこもり気味になる夫に断られ、妻は1人でセシル・エロワールのオペラを見に来るが、そこには笑顔で肩に手をかけるロラン・デモがいる。彼女はデモと夜の街に繰り出すが、その一部始終を衛生生中継のTVモニターで見ていた夫は偶然見つけた妻の姿に絶句し、悶える。

妻を愛していたはずのルネだったが、いつの間にか2人の関係はすっかり冷え切っている。彼の勃起不全はヴィヴィアンヌの肖像画を描かなくなったことにはっきりと暗喩される。冒頭の生徒エロイーズの何気ないスケッチは妻ヴィヴィアンヌからの逃避を予感させ、殺されたエロイーズも父性の不在をルネで補おうとしていたことが、敏腕女性刑事により明らかにされる。確固たる父性を求めているのは何もエロイーズだけではなく、ヴィヴィアンヌも同様である。突然現れた素敵な男にヴィヴィアンヌの心は打ち震える。妻の行動に疑念を持つ夫の姿は、シャブロル映画でこれまで繰り返し描かれてきたが、その中でも特に切ないルネの思いがただひたすら胸を打つ。ルネは妻の不倫を疑ったことで、皮肉にも妻をデッサンする気力を取り戻すのである。その姿に妻ヴィヴィアンヌは恍惚の表情を浮かべながら、3日間のヴァカンスを新しい不倫相手と過ごした贖罪の念が拭えない。典型的な悪女として描写されるイザベル・ユペールほどではないが、ルネとデモの間を往来するサンドリーヌ・ボネールの演技も残酷で容赦ない。妻の幸せな情事とモンタージュされるルネの孤独なデッサン、友達と旅行に行くと言って出かけたヴィヴィアンヌの嘘に夫は気付いているが、その気持ちを妻にはぶつけられず、絵に託すより他ない。すっかり浮かれ気分だったヴィヴィアンヌが、贖罪の気持ちを抱え戻ったマイホームで見た、青いドレスを着た自画像が彼女の胸を一掃締め付ける。そこで唐突に2つ目の殺人が夫婦に降りかかるのである。風光明媚な街に訪れた一筋のさざ波が夫婦の運命を狂わせるクライマックス、霧がかった先に向けて走り出す運命の船、名カメラマンであるレナート・ベルタとの唯一のコラボとなった99分の小品である。

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