【第650回】『聖の青春』(森義隆/2016)
村山聖(松山ケンイチ)、「東に天才・羽生がいれば、西に怪童・村山がいる」と称された怪物。歳は羽生(70年生まれ)の一つ上ながらほぼ同期、羽生が15歳にして史上3人目の中学生での四段昇段を果たす中、1年遅れて四段に昇段し、プロ棋士となった未完の大器である。100年に1人の才能と称された羽生善治の後塵を拝したものの、世代交代の機運にあった90年代の将棋界に新風を巻き起こした逸材だった。今作は将棋専門誌『将棋世界』の編集長だった大崎善生の原作の映画化であり、監督である森義隆がデビュー作『ひゃくはち』の頃から温めていた原作の8年越しの映画化になる。村山聖は羽生善治に負けずとも劣らない才能を持つ一方で、5歳の時に「ネフローゼ症候群」と診断される。生まれつき腎臓の濾過機能に問題があり、水分が血管から組織へ漏れ出し、顔や手足が浮腫む難病を患う聖は、将棋に負けた翌日は、必ずと行っていいほど慢性的な疲労と精神的なストレスから、自宅のアパートで高熱を出して寝込んでしまう癖があった。『ちはやふる』の綾瀬千早(広瀬すず)の気絶の代償にも近いが、事態はもっと深刻である。羽生に対局で完敗を喫し寝込んでいた聖に、江川と師匠の森が看病に来てくれたが、聖は師匠の森に東京へ行く決意を伝える。自分の夢である名人になるために知った顔のいない世界へ飛び出したいと伝える彼の姿に森は、東京での世話役として将棋雑誌のライター、橋口(筒井道隆)を紹介する。
両親、親類はおろか、彼をプロの世界へ導いた師匠の森(リリー・フランキー)にも弟弟子の江川(染谷将太)にも、東京でお世話になった橋口にも滝誠一郎をモデルとする橘正一郎(安田顕)にも、先崎学をモデルとする荒崎学(柄本時生)にも傍若無人な態度を取る村山聖の天真爛漫な子供そのものな破壊的な魅力。『湯を沸かすほどの熱い愛』の幸野双葉(宮沢りえ)や『マイ・ベスト・フレンド』のミリー(トニ・コレット)ら女性たちが余命宣告を受け、あくまで社会に適用する形で現実にやり残したこと遂行しようとする一方で、今作の主人公である村山聖は死の恐怖を間近に感じながらも、順位戦を勝ち抜くために進行性癌の手術を拒否し、命を削る。これは将棋界の仕組みが名人を頂点とした純然たるピラミッドであることとも無縁ではない。A級棋士10人の下にB級1組2組、C級1組2組という名のシステムが敷かれ、名人になるためにはA級棋士10人の総当たり戦で1位になる必要があった。「ネフローゼ症候群」の病床で父親に勧められ、将棋と出会った村山聖は竜王・王位・王座・棋王・王将・棋聖の6つのタイトルには興味を示さず、ひたすら伝統あるピラミッドの頂点である名人を幼い頃から目指して来た。敷島医師(鶴見辰吾)の全身麻酔による手術を、脳に異常が出るからという理由で拒否する男の本音は凡人には計り知れない。奇しくも将棋とは別のチェスを扱う映画ながら、盤面に向き合う狂気は同等のエドワード・ズウィックの『完全なるチェックメイト』という名作があったが、盤に潜る意識というのは、既にルールとしての将棋のその先にある計り知れない何か業(カルマ)のようなものを見せつけて止まない。
「7五飛」という前代未聞の荒技に打って出た村山聖が羽生善治を誘ったある日の夜、店員に干渉されない(らしい)テーブルの上で、瓶ビール片手に繰り広げられた男同士の友情の素晴らしさ。「私は今日、あなたに負けて死ぬほど悔しい」と漏らす羽生の言葉に天狗になるでもなく、じっと耳を傾ける聖の表情。盤の中に深く潜り過ぎて、そのうち戻って来れなくなるんじゃないかと不安に駆られる当時の7冠王と無冠の大器とのエールの交換。勝負の深淵を見たものにしか味わえない2人の友情と共感に涙が溢れる。パートナーや子宝にも恵まれなかった稀代の天才村山聖は、ただ己の名人になりたいという夢に賭け、短い命を散らした。母親であるトミ子(竹下景子)の「丈夫な身体に産んでやれんでごめんね」の言葉には思わず涙が溢れた。ここには印象的な男たちの顔が溢れている。村山聖、羽生善治、森信雄(リリー・フランキー)、江川(染谷将太)、橋口(筒井道隆)、橘正一郎(安田顕)、荒崎学(柄本時生)。一番泣いたのは部屋で将棋を打つ音が聞こえ、母親のトミ子が涙を流した場面だったが、トミ子も村山聖のたった一度の初恋相手だった古本屋のアルバイター(新木優子)も女性陣はひたすら影が薄い。青野雅人(斎藤嘉樹)と小林伸広(中村蒼)の友情を描いた『ひゃくはち』、小栗旬と岡田将生の兄弟としての友情を描いた『宇宙兄弟』に続き、盤面の宇宙に魅せられた男たちの友情を描いた物語は男たちの見えない友情を紡いでゆく。シンプルだが力強い群像劇の力作である。
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