【第355回】『道頓堀よ、泣かせてくれ! DOCUMENTARY of NMB48』(舩橋淳/2016)
劇場に行ったら『エコーズ』の舩橋監督作ということで、およそ1年ぶりに衝動的にアイドル・グループを観た。さすがに1年のブランクはいかんともしがたく、シングル曲はおろか、知らない若いメンバーがたくさんいた 笑。何よりも驚いたのはチームMの高野とチームNの室の卒業である。チームN河野の卒業はある程度予感していたが、高野と室が辞めてしまったとは驚いた。山本、渡辺、上西、吉田あたりの1期生は盤石ながら、その序列争いの一角に須藤がいたのにも大変驚いた。私は彼女が入るのとちょうど入れ違いでファンを辞めているので、公演での彼女の姿を一度も観たことがない。ゆえに評価しようもないのだが、1人で船上で本を読んでいる姿は哲学者っぽくもあり、祭り上げられたイメージ臭も漂う。このグループは時に彼女のような奇抜なセルフ・プロデュース力が必要とされる。映画は彼女の哲学的な投げ掛けによって始まる。
ピザやケーキを正確に切り分けることが出来ないのと同じように、大所帯グループのドキュメンタリーというのは当然扱う熱量に不公平感が出て来るのは否めない。山本はグループのエースだから多くの時間を割かねばならないのは理解するが、渡辺の描写の少なさは運営と広告代理店のクリエイティブ・コントロールのイメージが過剰に漂う。はっきり申し上げて、渡辺のブランド・イメージが損なわれている場面はほぼ0である。ファンを辞める直前、このグループの将来のエースは藪下か渋谷で間違いないと思っていたが、代理店は彼女たちでなく、より古株の白間と矢倉を押していた。結論から言えば、矢倉はAKB48から難波へと戻ったらしく、それと入れ替わるように白間は秋葉原に上ってきた。そして総選挙の順位でも僅差で矢倉を上回った。だが舩橋監督は勝者にではなく、敗者の弁にじっくりと耳を傾ける。それによると矢倉の家は母子家庭で、年の離れた弟との2人兄弟で、矢倉は一家の大黒柱としての責任を早くから持っていた。彼女は大きな家を建てるという夢のために頑張っているのである。劇場の裏手ではいつも振り入れを頑張る努力家の側面が強調されていたが、これは私が抱く彼女のイメージとはあまりにかけ離れている。
中盤、秋葉原の兼任を解かれ難波に戻ってからの矢倉の憔悴した表情は、元気な頃の矢倉を知っているだけにあまりにも痛々しい。家族3人が車で近所のお寿司屋さんに食べに行く様子を車中から撮影していたが、矢倉は一言も言葉を発しない。お寿司屋さんの中にもカメラはずかずかついてきて、矢倉が母親に涙ながらに発した「いまアイドルをやっていても楽しくない」という言葉にはあらゆる感情が込められていて、一人の女としての矢倉楓子の素直な感情を伝える。60数名いるメンバーの中から矢倉を撮ろうという選択は舩橋監督によるものというよりも、あくまで代理店側の要請だった気はするが、ここで舩橋監督は明らかに矢倉の心理に、その感情に寄り添おうとしている。母親と姉の異様に張り詰めた空気に圧倒されたのか、弟はその空気の中で矢倉をじっと見つめているが、何も言葉を発しようとしない。おそらく、弟の目からも普段の優しいお姉ちゃんとは違う別の矢倉楓子の一面がはっきりと見えたに違いない。最後に笑みらしきものを見せるが、その笑顔とも困惑とも取れない表情がまさに偶然の奇跡を物語る。
では、舩橋監督が矢倉以上に心情に寄り添おうとしたのはいったい誰か?チームMの沖田である。1期生で唯一、シングルの選抜メンバーに一度も選ばれたことのない彼女を、舩橋監督とナレーションの萩原聖人は「NMB48の苦労人」と称する。今作に出て来る彼女の人となりや楽屋での努力は、私が公演で沖田に感じていたイメージとさほど違いはない。自分より若い新しいメンバーに振りを教え、チームMのメンバーなのにB2公演で『抱きしめられたら』を演じる。研究生時代のさや姉のアンダーを引き受けた彼女の頑張りや努力も紹介され、センターであるにもかかわらず、観客の目が自分を通り過ぎることの悔しさが本人の口から明らかにされる。そこでは舩橋監督が撮り溜めたマテリアルではないものも出て来る。チームNメンバー発表の瞬間である。そこに舩橋監督は11作連続で未選抜とテロップを入れていたが、これは率直に言って事実誤認である。そこでの発表は選抜ではなく、チームN昇格者の発表だろう。沖田がそこまでの努力を積み上げながら、なぜ選抜に入ることが出来ないのか?沖田推しのファンの声を拾い上げながら、舩橋監督はやがて一つの答えのようなものを得る。ここが今作を良質なドキュメンタリーとするか否かの境目となる。
私はつまるところ、舩橋監督がどんなに沖田の心情に寄り添おうとしたところで、結局は代理店の思いに応えただけのように思えてならない。あれはいわゆる目の前に人参をぶら下げた公開処刑であって、柏木や渡辺を守るための撒き餌でしかない。沖田推しの熱い問いかけにより、金子支配人は言葉を選びながらも、苦渋の決断に至る一つのヒントを我々に提示する。支配人としては監督との1対1のやりとりだったかもしれないが、カメラが回っている以上、そこに映っていることのみが事実となる。どう編集されても消えない事実としてべったりとこびりつく。その映像に込められた言葉の重みが観客の中にしこりとして残されたまま、支配人はクライマックスで沖田をとうとう劇場に呼び出す。そこにはあらかじめカメラが向けられているのである。そこで支配人の口から発せられた言葉、貧乏ゆすりしながら彼女に向けられた苦渋の眼差しというのは何よりも重い。おそらく藤田・村上・島田・高野や他の卒業生にも同じような問いかけがされたことは想像に難くないが、その問いかけがカメラを前にして行われたのは今回が初めてのはずである。人間というのはアイドルであろうが、他の職業であろうが、長所もあれば短所もある。ましてや10代や20代の若さなら、たくさんの過ちがあるだろう。だがこの場面での支配人の問いは、ほとんど「お前は人を殺したのか?」と同義であると言っていい。外部から見たこの場面のうっかりスルー出来ない異様さというのは、そのままグループのファンか否かを我々観客に突きつける「踏み絵」に相当する。ある種、AKBグループを一般人から特殊たらしめている根源の一端が垣間見える。我々は沖田を決して殉死させてはならない。
カメラマンの色調・光量・天気の問題もあるのだろうが、舩橋監督はどうも須藤というアイコンに哲学的な語りをさせることで、アイドルをうっかり応援することの侘しさやもの悲しさを表現している気がしてならない。その荒涼とした風景は『フタバから遠く離れて』の双葉の街のどんよりとした空を観ているようで悲しくなった。クライマックスのうず高く積まれたゴミの山は、大量消費社会に吐き捨てられたアイドルやヲタの累々と積み上げられた屍のメタファーであろう。それを裏付けるかのように、クライマックスには公演で輝くアイドルの生身の姿ではなく、彼女たちの廊下に飾られた写真を持って来ている。つまり総体としては生身の人間から一貫して距離を置こうとしているのである。萩原聖人のナレーションも、まるで『CURE』の間宮のように薄暗く、どこか被写体への決定的な愛情の無さを感じる。どう客観的に見ても、ファンにとってはあまり好意的に受け止められる作品ではないが、この物悲しさこそが逆に社会学的には興味の対象となるかもしれない。とにかく暗い、重い、圧倒的に切り口のどんよりした作品である。
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