【第353回】『イゴールの約束』(ダルデンヌ兄弟/1996)
外国人違法労働者の売買をする父ロジェ(オリヴィエ・グルメ)を助けながら、15歳のイゴール(ジェレミー・レニエ)は自動車修理工場で働いていた。そんなある日、労働者の一人アミドゥが事故を起こす。父は警察に不法労働が知られるのを恐れて、アミドゥを病院へ連れて行かなかった。そのため、アミドゥはイゴールに妻と子供のことを頼んで亡くなってしまった。父はイゴールに手伝わせて死体を埋め、アミドゥの妻アシタ(アシタ・ウエドラオゴ)に嘘をついたが……。ダルデンヌ兄弟の衝撃のデビュー作。本国では実は3作目ながらカンヌに初めて招待され、国際芸術映画評論連盟賞を受賞し、今作で一躍世界のトップに躍り出ることになる。
最下層に生きる人々の貧しい暮らしや、服従と抵抗など後のダルデンヌ兄弟の作品に通底するモチーフの源流は今作にあると言っていい。15歳のイゴールは自動車修理工場で働きながら、将来は修理工として生計を立てることを密かに夢見ているが、家庭環境と父親がそれを阻む。イゴールの父親は外国からの移民を雇い、斡旋する闇のブローカーとして生計を立てている。これが普通のハリウッド映画ならば、闇の組織を拡大してボスになっているところなのだが、彼はあくまで組織化して徒党を組まず、息子にだけ依存する。息子の腕にタトゥーを彫る場面、同じ模様の指輪をプレゼントする場面は、父親から息子への同調圧力(縛り)となるが、その度に息子は嫌々ながら父親の命令に従うことになる。そんな自堕落な生活や負のスパイラルをなかなか抜け出せない。ダルデンヌ兄弟の映画においては、特別な技術を習得し、未来につなげたいという若者の思いを制度や因習が踏みにじっていく。今作でロジェの口から、手に職を付けることは大事とか、息子の修練の機会を奪うわけにはいかない父親の思いやりを一切感じ取ることはない。息子をこき使いながら、時には暴力も辞さないロジェという男のどうしようもない悪に染まり父親に服従し、息子の明るい未来はまったく見える兆しがない。
それよりも驚かされるのはロジェの違法ブローカーの手口を詳らかにするドキュメンタリー的撮影スタイルであろう。被写体への距離の詰め方、ステディカムによる機動性とが相まって、恐ろしくリアリティのある映像は今作において既に完成されている。常に中抜きをしながら、抜け目のない観察眼で彼らを搾取するロジェの姿は静かな恐怖を生む。ベルギーの荒涼とした街並みをあえて綺麗に撮らずにザラついたまま撮影し、交差点のない交通量の多い通りを主人公たちが駆け足で渡ろうとするシーンにはダルデンヌ兄弟の文明批判が色濃く反映されている。父親と息子のじゃれ合いを冷静なトーンで見つめた中盤のベッドでのやりとりから、続く酒場でのデュエットの異様さは次作以降まったく出て来ないものの、親子の不器用な関係性を伝える大変貴重なシーンである。また疾走するバイクをおそらく前方からトラックで据えたショットなど荒々しく初期衝動を伝えるショットが未消化のまま提示される。これらショットの新鮮さは近年のダルデンヌ兄弟の完成された世界観では観ることがない。
問題はマクロな社会問題をミクロに据えようとするアイデアではなく、脚本にしばしば見られる唐突な展開と些細な粗ではなかろうか。2階から落ちた人間が唐突に死ぬことはあっても、それをあのようにひた隠しにする父子の心境が今ひとつ響いてこない。アミドゥの悲劇は事故であって、過失や罰ではない。物語の展開上用意されたアミドゥのギャンブル好きのキャラクター設定も、貧困を抱える不法難民で父親の態度としては何とも言いようがない。また終盤に唐突に出て来た占いの場面にはやはり無理が感じられた。二重国籍を持った女性との出会いや、橋の上から小便をかけられるシーンの唐突な挿入にもやはり首を傾げざるを得ない。咄嗟についた嘘により、良心の呵責に責め立てられた主人公の心理の揺れの持続を表したかったのだろうが、それにより全体の流れがプツっと途切れる瞬間が勿体無い。
今作を観て、搾取する側とされる側の構図が今の難民問題と符合すると判断するのは容易い。ただ今作が制作された1996年の時点では、搾取する側(白人)と搾取される側(黒人)の関係性にイスラム国家は定義されておらず、あくまでアフリカ系移民やルーマニア人、韓国人等の普通の人々になっている。96年当時は『大人は判ってくれない』との親和性に関する記事も見られたが、曖昧にされたラスト・シーンからはイゴールの未来が明るいものとなる保証はどこにもない。確かに今作は父親からの自立を描いていながらも、実際にイゴールが経済的にも自立出来たのかどうかはまったく公にしていない。アシタと息子の行方もそうだが、終幕をハッピー・エンドにしない監督の厳しさが際立っており、彼の未来をより良い方向に導いてくれと願うばかりである。ロジェ役のオリヴィエ・グルメもさることながら、ダルデンヌ兄弟は今作で15歳のイゴールを演じたジェレミー・レニエを、これを発端として自作に何度も起用している。その一つが実の息子をブローカーに売り飛ばす父親を演じた『ある子供』であり、もう一つが実の息子を育てられずに施設へと送る『少年と自転車』である。グルメもレニエも当時はまったく映画の出演経験がなく、素人の非職業俳優だったものの、この映画を発端にして、フランス発の本格俳優へと成長を遂げるのである。