【第625回】『冬冬の夏休み』(ホウ・シャオシェン/1984)

 台湾の首都・台北、ある小学校の卒業式、『蛍の光』が流れる体育館内では、1人の少女が涙ながらに答辞を読んでいた。時への実感を感じさせる少女の美しく崇高な言葉。彼女の後ろに佇む子供たちも、ただ黙って少女の答辞に耳を傾けている。日本では専ら3月に卒業式が行われるが、因習の異なる台湾では小学校の卒業式が7月に執り行われ、その後約2ヶ月間の夏休みを経て、9月に中学校の入学式が行われる。今作の主人公である冬冬(王啓光)にとっても幼年期(小学生時代)からの脱皮が求められる大切な時期。卒業式を終えた冬冬は台北にある病院に、家族4人と叔父の恋人が母親(丁乃竺)の御見舞に訪れる。母親の身体の具合は思わしくないが、冬冬(トントン)とまだ幼い妹の婷婷(李淑楨)にはまだその状況が呑み込めない。恋人(林秀玲)を連れてきた叔父さん(陳博正)の浮かれ姿を揶揄う冬冬を母親は諭し、向こうの家では早寝早起きと規則正しい生活をしなさいねと伝える。一番可愛い盛りの幼い兄妹。本来ならば彼らに寄り添いたい母親は大手術を前に、子供たちを母方の家に預けようとしている。寡黙な父親(楊徳昌)は何も語らず、ただ後ろに下がって母子の様子をじっと見ている。子供たちは母親との対面が最後のような緊迫感を帯びていることに最後まで気付かないまま、台北から母方の祖父がいる銅羅へ向かう。

田舎と都会の列車での往来は、初期から侯孝賢に通底するモチーフだが、今作では物理的な田舎への移動が少年の成長を促す。偶然にも親元を離れ、台北での中学校入学までを過ごすことになった冬冬は叔父さんとその恋人と一緒に銅羅駅行きの列車に乗る。侯孝賢の映画ではいつも決まってトイレにまつわるドタバタが登場する。今作でも急にトイレに行きたくなった妹の婷婷(ティンティン)に出発前に気付くが、走り出した列車の中では踏ん張りが利かず、スカートとパンツを濡らしてしまう妹の姿が微笑ましい。替えのパンツの柄に文句を言う描写などの細かい演出は、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)とタッグを組んだ女性脚本家朱天文(チュー・ティエンウェン)によるものだろう。侯孝賢は子供たちの日常に些細な波紋を起こしながら、極めて自然に子供たちの姿を切り取る。すっかり浮かれ気分だった叔父さんが、恋人の着替えを網棚に忘れた頃から列車に乗り遅れるが、小学校を卒業した冬冬は絶体絶命のピンチにもまったく動じる様子がない。車窓の風景は、ビルと交通量の多かった都会の街からあっという間に田畑と緑に囲まれた田舎へと変化し、冬冬は妹の手を引っ張りながら、銅羅駅の改札をくぐる。銅羅駅前にある噴水広場、夏休みにも関わらず、行くあてのない子供たちは冬冬のラジコン・カーを熱心に見つめている。ここでも侯孝賢は都会で暮らす外省人と、夏休みを田舎で過ごす他ない本省人たちのレイヤーを明らかにしながらも、子供たちはいとも簡単に仲良く打ち解けて行く。

都会の喧騒とは打って変わり、悠久の時と自然溢れる田舎町の素晴らしさ。都会のおもちゃ欲しさに、本省人の子供たちはカメ・レースに走り、ゴツゴツした岩山だらけの川下の流れの中で泳ぐ。逞しくやんちゃな子供たちの中には誰か婷婷のような女の子がいなかったのかは疑問に思うが、両親がいない妹はせめて兄に頼る他ないが、中学生に向かおうとする兄はそんな妹を優しく面倒見る気などない。そんな婷婷の孤独を埋めるように、中盤突如、寒子(楊麗音)という知的障害の女性が姿を現わす。兄にもそっぽ向かれ、グイグイ先を行く田舎の子供たちと兄を追おうと短い脚で駆け出す妹の足取りはあまりにも心許ない。絶体絶命のピンチの中、妹を救うのは寒子である。本省人の女性として生まれながら、母親のいない家庭に父親と暮らす寒子を演じた楊麗音は、『風櫃の少年』ではアーチンやアーロンたちの岩場で行われるおどけたダンスを見つめていた少女であり、『恋恋風塵』ではホンを受け入れるミシン屋の店主を演じた侯孝賢作品の常連俳優である。映画は牛の行方を探した阿正國(この子も侯孝賢作品の常連俳優)の行方不明から生と死とが不穏な影を背負いながら、銅羅で暮らすお爺さん(古軍)一家の行く末に暗い影を落とす。叔父さんの恋人の突然の妊娠、堕落した叔父さんと幼馴染たちとの腐れ縁、叔父さんの恋人の懐妊など様々な出来事を盛り込みながら、祖父と叔父はのっぴきならない関係に至るが、子供の世界を生きる冬冬には事態の深刻さは感じても、大人たちの本質までは理解出来ない。母危篤の報せを受けた家族それぞれの気持ち、寒子が不幸にも宿した未来の子供の命が絶たれた時、代替する一つの生。トントンの中にこの夏の経験は息づく。『蛍の光』で始まり、『赤とんぼ』で終わる物語は我々日本人にも郷愁を呼び覚ます。

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