【第471回】『風櫃の少年』(ホウ・シャオシェン/1983)

 さびれた港町、ボロボロのコンクリートの上を一台のバスがやって来る。海岸沿いに佇むビリヤード場、4人の不良少年たちが時間を持て余し、カラフルな球を打っている。傍に店の主人と思われる老人の姿。4点減点と聞いてスコアを書いているが、ぼんやりとしか見ていない。ビリヤード場を出て、道路を勢いよく渡り、公衆トイレに駆け込む。2つ並んだ公衆トイレ。それを追って悪戯をする3人。ホウ・シャオシェンお得意のボロ・トイレの描写が早くも顔を出す。特に娯楽もなく、対立するグループとの間でしょちゅう諍いが起こり、恋人もいない奥手な思春期の少年たち。焦燥感、未来への不安、世界への漠然とした苛立ち。潮の香りに溢れた港町・風櫃で少年たちは、まばゆいほどの青春時代を持て余している。物言わぬまま玄関で、じっと風景を眺める父親。主人公阿清(ニュウ・チャンザイ)は「ただいま」の一言もなく、その場を素通りする。幼い子供を引っ張りながら、草むらを歩いていた幼少時代に遡り、父親はマムシをなたで何度も切りつける。理想的な大黒柱としての父親の姿。だが突然、理想の父親だった父性に危機が訪れる。

昼間の白球、脳に受けた激しい損傷、残る後遺症が阿清一家を苦しめる。かくして友人誰もに自慢出来る父親から一転し、父親は昼間から椅子に座ったまま動かない。母親はおらず、兄嫁との暮らし。阿清少年は両親の愛情を一手に浴びることなく、こうして悪に染まっていく。重ねる喧嘩がやがて警察沙汰となり、彼ら3人は警察に逮捕される。交番の前にフィックスされたカメラによるロング・ショット、3つ並んだバイク。やがて彼らは大した志もないまま、地方都市・高雄へ向かう。ここではホウ・シャオシェンお得意の電車の風景ではなく、船やバス、バイクが何度も往来する。高雄行きのバスの船上、1人残る友人に手を振る姿。台北ほどではないが、繁華街は賑わい、風櫃から来た3人は地方都市の賑わいに戸惑う。姉の紹介で職を得た単調な工場仕事、薄給の暮らし、アパートの隣に住む年上のシャオシンへの淡い思い。彼らはここでも生き甲斐を見出せぬままに、自堕落に生きる。慕ってきた姉の生活も、弟と同じく荒廃している。昼間から麻雀を打つ不良の経済援助。お小遣いを貰った3人は、成人映画の仲介人にまんまと騙され、まだ建設中のビルの11階に向かう。そこには映画館も何もないコンクリートだけの建物。むき出しになった窓から3人は高雄の街を一望する。よこしまな欲望を踏み躙る地方都市の搾取、彼ら3人の焦燥感はこの街にも呑まれようとしている。

固定カメラによるロング・ショット、ゲリラ的に撮影された群衆シーンのドキュメンタリー・タッチのカメラが彼らの青春の焦燥感をシリアスに、時に闊達に描写する。だが彼ら3人の自堕落な生活にも、終止符が打たれる時がやがて来る。ハッピー・エンディングなライト・コメディを連発した初期ホウ・シャオシェンの牧歌的なスタイルはここにはなく、ひたすらシリアスに突き放すような描き方が続く。友人たちとの分岐点、父親の死、密かに思いを寄せていたシャオシンとの失恋、そして徴兵。阿清の心は引き裂かれ、風櫃と高雄との間で行ったり来たりする。冒頭のバスが、父親の葬式で阿清が風櫃に戻る際に、もう一度繰り返される。それと同時に、かつて波打ち際で少女をからかった4人の無邪気な笑顔にはもう戻れないと我々観客は気付く。クライマックスの『G線上のアリア』がただただ胸を締め付ける。『恋恋風塵』同様に、二度と戻らない青春の日々を闊達に描写した傑作である。

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