【第354回】『 サンドラの週末』(ダルデンヌ兄弟/2014)

 ダルデンヌ兄弟の映画では常に労働と雇用の問題が大きく横たわってきた。『イゴールの約束』では自動車整備工になる夢を持ちながら、父親の関係で嫌々不法移民の斡旋に手を貸す主人公を通して、環境から這い上がることの難しさをシリアスなタッチで描いた。『ロゼッタ』ではキャンプ場のトレーラーハウスで、アルコール中毒の母親との2人暮らしを送る1人の少女の姿を通して、ベルギーの貧困や限られた求人を奪い合う若者たちの雇用の行き場のない苛立ちを描いた。『息子のまなざし』では11歳の時に殺人を犯し、5年服役し職業訓練所で働く少年を通して、技能を獲得しなければ生活していけない少年の状況を冷静に見守った。『ロルナの祈り』ではブローカーと結託し、偽装結婚して金をせしめようとした主人公が過ちに気付き手を引こうとするも、下層階級のがんじがらめが彼女の希望を奪い取った。『少年と自転車』では裕福な里親に世話になる少年が、実の父親探しの旅に出るが、彼は貧困で息子の存在を必要としていない事実が浮かび上がる。ダルデンヌ兄弟の映画では、どの物語を切り取っても裕福な家庭など存在しない。最下層に生きる人間たちの姿を通して、ヨーロッパが抱える様々な問題をあぶり出す。その徹底した眼差しの真摯さ誠実さこそがダルデンヌ兄弟の魅力である。

今作においても2人の小さな子供を持つ母親は冒頭、いきなり職にあぶれる。彼女が勤める会社は17人を雇ういわゆる中小零細企業であり、精神に少しネックを抱える彼女を解雇し、強引に16人で再出発を図ろうとしている。ここでは『ロゼッタ』における雇用の奪い合いが物語の主軸となる。社長は残酷にも彼ら16人に対し、自分たちのボーナスをカットしてまでサンドラを残すか、夏のボーナスを受け取るかの二者択一を迫るのである。この社長の措置にはサンドラへの温情などどこにもない。経営者の非情な判断として、労働者16人にはぞれぞれの生活があることがわかっている経営者にとっては、一見民主主義に貫かれた方法を取ったほうが、直接解雇する手間が省けるのである。導入部分ではサンドラの強引な説得により、月曜日の再投票を渋々認める形になった経営者だが、この時点ではその結果は見えているのである。映画は彼女の工場での働きぶりや労働者仲間との関係性を一切提示しない。彼女は自分の解雇を覆すために、労働者16人1人1人の説得を試みるのだが、その出会いのどれもが観客にとっては労働者仲間との初めての出会いとなる。サンドラにも生活や苦しい事情があれば、彼らにとってもボーナスを諦められないそれぞれの事情があることを観客に伝える労働者たちの背景の描き方にダルデンヌ兄弟の熱量が見える。善悪の判断の容易につかないところにこそ、思考のチャンスは生まれるし、同時に想像の余白も生まれる。

この16人1人1人への地道なお願いの作業は、大括弧に括られたEU圏内における移民の問題や弱者への再分配とも無縁ではない。月曜日にサンドラの首を繋ぐことになるか切ることになるのかの判断は、同じように貧困で弱者たる労働者たちに委ねられており、経営者はその権限すらも故意に手放している。ハリウッド映画に於いては美談で済まされるはずのネゴシエーションの工程が、逆説的にそれぞれの家庭の現実を物語るのは何とも皮肉な話である。主人公が自分の置かれた状況から脱しようともがけばもがくほど、他の人間も同じような境遇に置かれていながら、感情論で生活苦を呑まなければならない状況にさらされる。特筆すべきは、最期に描かれる人物がベルギー国民ではなく、明らかに移民として描かれることにある。普通の経営者の判断ならば、サンドラよりもまずこの移民こそが解雇になるはずだが、経営者にとっては、移民以上に病気を持つ弱者の方が早急に改善したい案件となるのである。

今作において本筋はあくまで、彼女が果たして雇用復帰するのか否かであるが、車の中での夫との会話から別の主題がゆっくりと立ち上る。公園のベンチで「あれになりたい」と言った妻の「あれ」がいったい何なのかはその後「鳥になりたい」と強調し、反復されるが、切り返しで鳥が優雅に佇むショットは遂に出て来ない。再び手持ちカメラに持ち帰られたダルデンヌ兄弟のショットは狭い室内や階段を行ったり来たりしながら、サンドラの行動を凝視する。カメラは徹底してサンドラの行動や心情だけを感情なく抽出することにし、労働者16人や経営者の心情にはほとんどフォーカスしない。だが今作に作為的な演出が施されていないかというとそうではない。例えば、息子たちとピザも食べず、意気消沈してベッドに潜り込む彼女を夫が無理矢理連れ戻し、半強制的に説得の行脚に回らせようとする。説得しようとした人間が別の人と話しているという理由でまた時間を改めようとしたサンドラを夫は叱る。車中で電話に出ようとしないサンドラに夫が自分のスマフォで息子の活気ある声を無理矢理聞かせる。消極的な妻を立ち直らすために、夫こそが真に献身的な愛情を見せる。その愛情に対し、4ヶ月もSEXをしてないから別れましょと提案するサンドラは実に身勝手である。

ダルデンヌ兄弟の映画ではこれまで、主人公を非職業俳優たちが演じてきた。厳密に言うと彼らの映画に出演してから、職業俳優としての道を歩み始めた。彼らの自然な演技と身体性が、ダルデンヌ兄弟のドキュメンタリー・タッチの映像と化学反応を起こし、貧困層の暮らしぶりをダイレクトに伝えることに成功していた。マリオン・コティヤールの演技はそれら非職業俳優の自然さとは真逆の演技であり、役者としての経験・蓄積からその場にふさわしい選択を導き出せる稀有な女優だと思っていたのだが、いざダルデンヌ兄弟のショットの中に収まると、普通になりきろうとする。目の下にクマを作り、髪の毛は無造作に後ろで縛るだけで、長年履いているだろうローライズ・ジーンズはくたくたで、タンクトップの肩からはブラひもが見えてしまっている。このサンドラという女性は明らかに心に余裕がないのである。常に階段を上り下りし、角を曲がって駆け足で16人の同僚の家を訪ねて回り、車の中では過呼吸により水を一気に飲み干そうとする。マリオン・コティヤールは女優としてのオーラや堂々とした立ち居振る舞いを完全に消去し、市井の人サンドラになりきろうとする。そのわざとらしさの欠片も見えない自然な所作がただただ素晴らしい。ラストのロング・ショットの美しさも忘れられない。演技やショットの選択がどんなに恣意的なものであろうが、そこで据えられる時間や空間は当たり前だが生であり、自然さを取り繕うとするリアリティよりもより強い生身の身体性が生まれる。そのことにダルデンヌ兄弟がゆっくりと向き合い始めたことを示す美しいラスト・ショットである。

#ダルデンヌ兄弟 #マリオンコティヤール #サンドラの週末

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