【第395回】『インサイダーズ/内部者たち』(ウ・ミンホ/2015)
ソウル市内に佇む一際巨大なビルの前に集まる多くの人だかり。マスコミが押し寄せ、ある人間の到着を今か今かと待ちわびている。そこにブラックの車がゆっくりと左カーブを曲がり、乗り込んでくる。男は自分の口からある汚職に手を染めた犯罪者の驚愕の手口を次々に告発する。髪をしっかりと整え、ビシッとスーツで決めたこの男(イ・ビョンホン)は政治家か検察のお偉いさんだろうか?いかにも現代的なカメラの洪水のごときおびただしいフラッシュ、ノート・パソコンに打ち込まれる言動の数々、一通り話し終えた男は、右手に包んだ黒の手袋をゆっくりと外してみせる。そこには本物ではない義手がはめられており、男はフラッシュの洪水に対抗するかのように人工的な義手の見かけを見せびらかす。右手首から先が切断された痛々しい右手の縫合跡。今作は右手を奪われた男アン・サング(イ・ビョンホン)の復讐劇なのだ。彼は韓国政界の影のフィクサーとして暗躍する記者イ・ガンヒ(ペク・ユンシク)に仕えており、義兄弟の契りを結んでいる昔気質のヤクザである。汚れ仕事を進んで引き受け、ヤクザの世界を暴力でかけ上がり、まさにこれからというタイミングで敵対するヤクザにノコギリで右手首の先を切断される。
片手を失い、自暴自棄になった孤独な主人公。不幸のどん底へ落ちた彼の周囲を、一人の男が猛烈に嗅ぎ回る。ただの冷やかしや哀れみなのか?それともトドメを刺しに現れた敵の刺客なのか?なぜ片輪にしても命までは奪わなかった男が、再び命を取りにやって来るのかはともかくとして 笑、明らかに仕事が出来そうな出で立ちの颯爽とした男にアン・サングは絶体絶命の危機を救われることになる。男はアンに横取りされた財閥企業ミライ自動車(明らかに現代自動車の模倣)の裏金ファイルを欲している。その正体は裏金事件を捜査する検察官ウ・ジャンフン(チョ・スンウ)という男だった。こんな事件でもなければ出会うはずのなかった暴力でのし上がった裏社会の男と、正義を追求する検察官は運命の出会いを果たすのである。2人の最悪な出会いから、徐々に打ち解けていく友情物語は古き良きラブストーリーを見るような気恥ずかしさ満点だが、アンが匿われることになるロケーションが素晴らしい。ウの父親が営む田舎にある大きな古書店。本と文字に囲まれた暮らしがウ・ジャンフンという男の子供時代を体現するかのようだ。アンは彼が幼少期を過ごした部屋で何日か過ごしながら、出会うはずのなかった権力側の男にシンパシーを覚える。政治家による賄賂や汚職、財閥10社が仕切る腐敗した韓国経済の渦中でもがき苦しむ末端で暮らす一匹狼、もう一方は志を持って入署した警察を辞め、正義のために検察官の職に就いたものの、コネもなければキャリア組でもない今後が決まってしまったかに見える男、対照的な2人の構図を、どうしようもない底辺にいる同じ境遇同士として描くことで、観客はアンチヒーローたちに韓国の腐敗の浄化を託すのである。
しかしながら韓国が長年築いてきた賄賂や汚職、財閥と政治家の癒着の厚い壁はそう簡単には切り崩せない。二転三転する脚本の妙と謳っているが、私はそれよりもアンチヒーローが何度も状況を打破しようと試みるが、その度に跳ね返される強力な壁こそが、韓国の病理の深さを指し示している気がしてならない。前半部分は大統領選指名候補争いの水面下のネゴシエーションを描いているが、権力を手中に収めた脂ぎった中年男性たちの醜い表情のクローズ・アップの連続は、あまりにも見るに堪えない。イ・ビョンホンとチョ・スンウという2人の圧倒的なイケメンのパワーをもってしてもフレームの中の重苦しい雰囲気を中和出来ていない。前半部分のまるで全員『アウトレイジ』な脂ぎった高カロリーな大写しの騙し合いは、底なし沼のような醜悪さを呈する。そもそも昨年夏の中央日報のデータによれば、昨年初めて女子の人口数が男子の人口数を上回ったとされる。韓流ドラマでも、同じく韓国のホン・サンスやキム・ギドク作品でも女優の活き活きした姿が男優以上に闊達に描写されるが、今作には圧倒的に女優が足りない。もともと任侠映画やアジアン・ノワールの一部には、男だけの世界で、まるで女はいないかのように描かれる不自然さはあるが、今作における数少ない女優の出演シーンが、権力者の情婦として股を開いたり、練炭自殺したり、政治家と財閥のお偉いさんの男性器をしゃぶる描写ばかりなのはいかがなものか?今作において数少ないエキストラ女性の登場シーンがほとんど裸なのも、表現以前の問題を露呈していないか?
冒頭のイ・ビョンホンの告発シーンにおける大量のカメラのフラッシュ、中盤の危うく殺されそうになる場面のLG電子のケータイ電話の落下、終盤どういうわけか存在する独房のサムスン電機のTVモニター、政治家や財閥オーナーたちのLG電子社製ケータイ電話による通話、衆人環視下のようなTVモニター映像、USBディスクに記録された裏金ファイル、天井に取り付けられた監視カメラ、チップ大の小ささまで縮小した盗聴器など、今作の背景には明らかに2000年代以降でなければ登場しなかった数々の道具立てとSNSの隆盛とを下敷きにしている。これは60年代の任侠映画や80年代のアジアン・ノワールでは絶対に成立し得なかった細部の充実であろう。大抵のギャング映画であればそれでも最終的に仁義・友情・復讐の極めて単純な、切った張ったの大立ち回りな物語に収束していくのがオチだが、今作が真に斬新なのは、SNSの隆盛がある意味、ドスやチャカの何十倍も力をもってしまうことにある。明確なヒロインが出て来ない上に、単純明快な撃ち合いもないが、映画が終わってみれば正義vs悪の図式の勧善懲悪以上の清々しさを誇る読後感に圧倒された。高カロリーで極めて凡庸な前半部分を吹き飛ばすような、極めて痛快なエンディングを迎える作品である。