【第272回】『ザ・マスター』(ポール・トーマス・アンダーソン/2012)

 第二次世界大戦末期。海軍勤務のフレディ・クエル(ホアキン・フェニックス)は、ビーチで酒に溺れ憂さ晴らしをしていた。やがて日本の敗北宣言によって太平洋戦争は終結。だが戦時中に作り出した自前のカクテルにハマり、フレディはアルコール依存から抜け出せず、酒を片手にカリフォルニアを放浪しては滞留地で問題を起こす毎日だった。今作においてフレディは明らかにPTSDを患っている。ベトナム戦争から帰国した兵士において見られたこの精神疾患が、第二次世界大戦から帰国した彼を苦しめ、社会に適応出来なくしてしまっているのは明らかである。だがこのフレディという男、どこか憎めない人物として描写される。砂浜に書いた女のヌードと性交を果たす光景や、海岸を眺めながらのオナニーは明らかに異様な行動だが、男の持つ魅力に人々は少なからず魅了されている。

カメラマンとして小口を凌ぐも、背広の男の首を絞めて即刻クビになる。その後農夫となり生きていくが、彼が出来心で老人に注いだ密造酒が元で、老人が死ぬ事件が起きる。ここでもPTA作品におけるイミテーションは有効である。フレディは少量の酒に、各種の薬品、整髪料、塗料などを混ぜ合わせ、アルコールをイミテーションするのである。密造酒を老人と酌み交わしながらフレディはつぶやくのである。あなたは実の父親のように見えますと。

あわや殺人の濡れ衣を着せられそうになったフレディは密造酒をしこたま呑み、一つの豪華客船に滑り込む。その船で結婚式を司るある男と面会する。その男、“マスター”ことランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、フレディのことを咎めるどころか、密航を許し歓迎するという。フレディはこれまで出会ったことのないタイプのキャラクターに興味を持ち、下船後もマスターのそばを離れず、マスターもまた行き場のないフレディを無条件に受け入れ、彼らの絆は急速に深まっていく。

このフレディとマスターの出会いは、処女作『ハードエイト』におけるフィリップ・ベイカー・ホールとジョン・C・ライリーとの出会いや、『ブギーナイツ』のバート・レイノルズとマーク・ウォルバーグ、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のダニエル・デイ=ルイスとディロン・フレイジャーとの関係性の再来だと読み解くことが出来る。彼らは実の父子よりも親密な擬似父子としての関係性を築いており、年長者は若者を然るべき人生へと導いていく。ここで重要なのは、農村では老人を死に至らしめたイミテーションの偽造酒を、マスターが取り憑かれたように嗜むことである。マスターはフレディを危険分子とは思っておらず、一緒に偽造酒を酌み交わす。

『ハードエイト』においては、贖罪の気持ちが彼らを親密にさせたが、ここでは偽造酒とプロセシングの交換が彼らをつないでいる。フレディが配合した偽造酒はある意味、LSDと同じような劇薬であるが、その効き目がマスターを虜にし、フレディもマスターのプロセシングを受けることで、自分の心が軽くなっていく。最初のプロセシングの場面は、まるでアクション・シーンのような緊迫感のある切り返しで繰り広げられる。おそらくフレディにとってSEXやアルコール(一種のドラッグ)でしか感じたことのない一種の恍惚状態がこのプロセシングの場面では起きている。マスターはフレディに一切の瞬きをさせず、ただひたすら彼の感覚を追い込んでいくが、そこで「ドリス」という女性との思い出が、フレディにとって重要なウェイトを占めていることを理解するのである。

しかしながら、フレディの受ける感動とは対照的に、我々には「マスター」と呼ばれているランカスター・ドッドのカリスマ性が、スカスカのメッキで装飾されたものだと見ることも出来るのではないか。PTAはこれまで虚飾のカリスマ性を帯びた人物たちを自らの映画に登場させてきた。『ハードエイト』におけるペテン師のギャンブラー(オマケに殺し屋でもある)、『ブギーナイツ』におけるポルノ映画監督、『マグノリア』におけるナンパ指南役、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』における新興宗教の預言者、それらとほぼ同列にいるのがこのマスターという男に他ならない。PTAは今作におけるマスターのキャラクターを、実際に50年代のアメリカで設立され、現在も存在する宗教団体「サイエントロジー」のL・ロン・ハバードがモチーフになっていると認めている。

彼の秘密のベールに包まれたメッキを剥がすのは、NYにおけるジョンという人物であったが、フレディがマスターの転落を暴力で食い止める。この辺りから擬似父子の関係が、実際の家族以上に強調され始め、“ザ・コーズ”という団体に関わる者たちが、フレディを邪魔者呼ばわりし始める。PTAの映画では開巻からちょうど折り返し地点を迎えたところで、徐々に登場人物たちの転落が始まるが、今作においても例外ではない。金銭を不正に授与したとして、マスターはフレディと共に監獄にぶち込まれる。そこから緩やかに家族のバランスが崩壊へと向かっていくのである。

出所後、マスターはフレディに過度なプロセシングを要求し、フレディの男根を無理矢理に去勢しようとするのである。今作において男根のイメージは蒔絵のように幾重にも散りばめられていたが、ここで遂にマスターの欲望が牙を剥く。『ブギーナイツ』においても、ヘロイン中毒で勃起不全に陥ったマーク・ウォルバーグがバート・レイノルズに直ぐに撮影に入ることを強要するが、バート・レイノルズが断る場面があった。マスターが2つ目の書である『割れた剣』を刊行した時、フレディは彼の醜さや才能の無さに気づいてしまう。ローラ・ダーンの指摘にも明らかなように、誰の目にも明らかなマスターの衰えを、ザ・コーズは必死にイミテーションし、ひた隠しにしようとする。

どうして映画館の支配人が、フレディに黒電話の配線をめいっぱい伸ばしてまで、電話を繋いだのかは未だにさっぱりわからない。だがこの連絡がドリスとの淡い思い出に終止符を打ったフレディにとって、マスターとの決別を意味することは容易に想像出来る。案の定フレディの来訪に、マスターの妻ペギー(エイミー・アダムス)は、「酔っているの?」と彼に痛烈な罵声を浴びせるのである。だが本当に酔っているのは誰なのか?自分の行く先が見えなくなってしまっているのは誰なのか?その後のマスターの頬を伝う涙が全てを物語る。

今作は唯一例外として、カメラマンをロバート・エルスウィットから、フランシス・フォード・コッポラ作品で知られるミハイ・マライメア・jrに代わり撮影された。彼のカメラの色調や構図が実に鮮やかで素晴らしい。農村を逃げ惑う際のフレディのロング・ショットだったり、フレディとマスターの切り返しの際、背景を黒で消して、彼らの表情を際立たせるショットが実に素晴らしい説得力を誇るのである。今作はこれまでのPTAのフィルモグラフィにおいて、明らかに最も難解な部類に属する作品である。私も初めて劇場で観た際にはあまりの光景に面食らったが、5回10回と観るにつけ、段々と狂気に満ちた擬似父子の関係に深入りしていった。ある意味PTAの疑似父子モノの最終形態と呼んでいいかもしれない。

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