【第392回】『セーラー服と機関銃 -卒業-』(前田弘二/2015)
2016年の春は『ハート・ブルー』の大型リメイク『X-ミッション』にも驚かされたが、邦画界の『セーラー服と機関銃』のリメイクも驚きを持って迎えられたのは云うまでもない。「読んでから観るか、観てから読むか」の角川映画40年間の歴史アーカイブスを紐解いた時、相米慎二の『セーラー服と機関銃』はあまりにも大きな異彩を放っている。相米にとって『翔んだカップル』に続く2作目となるオリジナルは、前作に引き続き、女優・薬師丸ひろ子と向き合い、彼女の魅力を最大限に引き出した傑作であり、フレームの中に二度と刻みこめない17歳の思春期の成長ドラマを克明に記録したアイドル映画の紛れもない名作だった。それと共に『セーラー服と機関銃』には後の角川映画とは一線を画す大きな分岐点となる特徴が2つある。1つ目は赤川次郎原作のやくざの一家・めだか組の組長襲名の物語が、当時のヤクザ映画の終焉を図らずも描いていたことであろう。60年代中期から邦画界は各社が任侠映画路線を歩み始め、鶴田浩二や高倉健らがスターに登りつめ、東映任侠路線、『仁義なき戦い』などの実録路線などが大ヒットし、ホーム・ドラマが得意な松竹までもが安藤昇を起用し、各社競うようにヤクザ映画を量産していく。その一連のブームが70年代後半から急速に陰り、80年代を迎える頃には、いわゆる角川映画のようなテレビとのメディアMIXにより、垂直投下型で撮影・配給されたアイドル映画が隆盛を迎えることになるのだが、この「ヤクザ映画」から「角川映画」へのたすきをつなぐターニング・ポイントに挙げられるのは、薬師丸ひろ子のデビュー作となった『野性の証明』での高倉健との共演と、『セーラー服と機関銃』における、ただの高校生が組の命運を握る破滅的な物語に、ヤクザ映画というジャンルに引導を渡す直接的な原因があったのだと考察する。
2つめは角川映画というよりも、むしろ監督である相米慎二個人の感傷に負うところが大きいが、オリジナルの『セーラー服と機関銃』に見られたにっかつロマンポルノへの淡い郷愁の念である。父親が死に、目高組の組長に襲名することになる少女のヒロイックな物語に対し、監督である相米は彼女の親代わりであるマユミ(風祭ゆき)に尋常ならざる肩入れを施している。冒頭、マユミは星泉の部屋にまるでこの家に住み着いていた幽霊のように当たり前のように現れ、狼狽する泉に亡き父親の遺言状を見せ、なだめる場面がある。知らない人とは話さないという両親の教えを頑なに守っていた少女がこの遺言状に絆され、心を開いていく過程こそが、組長襲名と敵対する組織との対決の裏に伏線としてしっかり張り巡らせされた骨子となるのは言うまでもない。その後続くマユミの失踪と救出こそが、泉にとって死線からの奪還となるのは云うまでもない。それと共に泉が組長襲名を直接的に懇願された佐久間真(渡瀬恒彦)という年上の男との、親代わりと恋心を取り違えた複雑極まりない乙女心こそがアンビバレントに物語を展開し、想像力を刺激したのは今更申し上げるまでもない。だからこそマユミと佐久間との情事を覗き見た少女の決定的な失望の場面であり、マユミはマユミで泉を大事にしてほしいという父親の遺言を受け入れたはずが、結局その期待に応えられないもどかしさで、ブランコを空虚な表情をしながらゆっくりと漕ぐマユミの表情こそが、ヤクザ映画の終焉と共に、ロマンポルノの時代の終焉さえも予感していたと言っても過言ではないのである。
では2016年現在、そういうありとあらゆるしがらみから解放された今作はどうか?冒頭、教室の一番前の席で居眠りをする星泉(橋本環奈)は夢の中で、オリジナル版のクライマックスの星泉(薬師丸ひろ子)の殴り込みの際の描写「カ・イ・カ・ン・・・」を随分あっさりと追体験してしまう。それはオリジナルのリフレインではなく、実は数ヶ月前の浜口組襲撃事件の際のものだと後々わかるのだが、ここで唐突に小さな町を縄張りとする目高組の対抗組織として、浜口組なるものが顔を出す。商店街では「メダカ・カフェ」という名前の小さな商業施設を営みながら、なぜか町の治安を一手に引き受けた秘密警察のような世直しを続ける目高組の姿が顔を覗かせる。今作では浜口組が目高組に対し、「薬物入りクッキー」売りの疑惑を投げかけるが、泉はまったく身に覚えのない罪状に潔癖を主張する。ここで唐突に第三極が顔を出すのである。モデル事務所の斡旋、違法薬物の密売など21世紀的な犯罪を持ち込みながら、前田監督が描くのは少子高齢化・過疎化に憂う日本の将来に他ならない。目高組のような人情を持った20世紀的なヤクザもいるにはいるが、それらは21世紀にはとっくに死に絶え、ビジネス最優先の商業ヤクザが幅を利かせている。市長選挙を前にした偽善者の候補者の行動やその後の展開は相米慎二監督作品よりもむしろ、黒沢清の『勝手にしやがれ!!英雄計画』そのものである。耳馴染みの良い御託を並べて、浜口組を掌握し、目高組に市民の憎しみをぶつけさせる手口も『勝手にしやがれ!!英雄計画』とあまりにも似通っていると言わざるを得ない。
むしろ今作の焦点となるのは、星泉にとってオリジナル作品で親代わりと恋心を取り違えた佐久間真(渡瀬恒彦)に値する人物が誰なのかと言うことである。前田監督は明らかに相米慎二のオリジナルを意識し、というよりも相米の80年代のフィルモグラフィを俯瞰し、配役を施している。そうして集められた鶴見辰吾、榎木孝明、伊武雅刀らベテラン勢の素晴らしい演技は、相米慎二の映画遺産に対し、最大限の敬意を払った姿に他ならない。前作であまりにも退廃的で腹黒い権力主義者黒木刑事を演じた柄本明の息子、柄本時生もT太郎という風変わりな役どころを嬉々として演じている。相米慎二とオリジナル作品の世界観を知る者たちを要所に配置しながら、亡き榎木孝明の幻影を継ぐ人物として、実は致命的なダメージを負わせた張本人である浜口組若頭補佐である月永(長谷川博己)を持ってきている。これは導入部分の割引券を配る場面での数秒続く見つめ合いのシーンでも明らかだろう。約束場所にラブ・ホテルを指定し、数分前に風俗嬢と口づけを交わす月永の真意はともかくとしても 笑、愛する町を守ろうという名目において、泉と月永は結託する。車内でのやりとりや、雨に濡れた2人の倉庫での着替えの場面など、まどろっこしい恋の駆け引きは横へ置くとしても、含蓄のある演技を見せていた武田鉄矢まで途中退場させるのはあまり得策とは思えない。その中でも唯一、前田弘二の署名を嗅ぎ取れる場面として、武田鉄矢の途中退場により、結託した泉と祐次、晴雄の「メダカカフェ」での馬鹿騒ぎの長回しが実に前田監督らしい3人の自然な演技を据えていると言える。ここでは『俳優 亀岡拓次』同様に、前作の酒井敏也を明らかに引き継いでいる宇野祥平のおどけた演技が実に素晴らしい雰囲気を醸し出している。
自主映画出身監督として、大作の経験が欠けた前田監督のベテラン俳優陣の配役、それを活かした細部の丁寧な演出に対し、むしろ問題なのはアイドル映画にも拘らず、PG12規制をくらった暴力の核心部分、活劇パートに垣間見える類型的な暴力描写であろう。ホリウチ都市デザインの社長に安井(安藤政信)を配したことからも類推できるように、今作の活劇パートが明らかに石井隆『GONINサーガ』の縮小再生産に見えたのはご愛嬌では済まされない。『GONINサーガ』における式根隆誠の息子、誠司のように典型的な金持ちのボンボンである安井は、この町の住民を随分あっさりと騙し、目高組と浜口組を離合集散させ、権力さえも手中に収める。『GONINサーガ』のクライマックスの式根親子の結婚式の場面が、まるでスナックに居を移し、繰り広げられるかのような至近距離での銃撃戦はあまりにも要領を得ない。誰の放った弾が誰に命中したのかも明らかにせず、死んだ人間だけを美化するのは御都合主義の作品だと笑って済まされるものではない。致命的な傷を負った祐次の死に対し、同じく致命的な傷のはずの晴雄が長々と運転しているのも実に不明瞭で要領を得ない。ペキンパーのようなスロー・モーション表現で前田監督は活劇の交差らしきものを描いているものの、スタイルの模倣に留まっている。そもそもこの場面における安井のアロハシャツは活劇パートの衣装として相応しいのだろうか?そういう裏方スタッフの細部に渡る判断ミスや経験不足が大作を弛緩させたのは残念である。橋本環奈のアイドル映画としての輝きを期待している方は十分納得出来るレベルには達しているが、オリジナルと比較すると神通力の不足は否めない作品である。
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