【第634回】『深夜食堂』(松岡錠司/2015)
多くの人々が家路に着く頃、男の仕事は始まる。交通量の多い靖国通りを抜け、ネオンライトや人々の往来の激しい路上を眺めながら歌舞伎町へ。繁華街の路地裏にある小さな食堂「めしや」。深夜に店が開くことから、人呼んで「深夜食堂」と呼ばれる店は本名不明で強面のマスター(小林薫)が1人で切り盛りする。カウンターだけの小さな店、営業時間は深夜0時から朝の7時頃まで。メニューは「酒」と「豚汁定食」のみだが、常連客には腕自慢のマスターがとっておきの裏メニューを作ってくれる。こじんまりとしたお店にはいつも客の心地よい笑い声が絶えない。ある日、店の右隅に骨壷が置き忘れられていた。常連客たちが骨壷をネタに話に花を咲かせていたところ、久しぶりにたまこ(高岡早紀)がやってくる。成金の愛人を亡くし未亡人となるが、一銭も貰えない彼女は、新しいパトロンを探しに夜の街へ戻って来ていた。人気漫画を原作とし、2009年10月より放映されたドラマ版「深夜食堂」シリーズの劇場版パート1。ドラマ版の常連メンバーが総出演する様子は、さながら同窓会のように「めしや」の夜を盛り上げる。夜な夜なカウンターに陣取りながら、彼らが交わす小気味良い台詞の数々を背景にしながら、たまこ(高岡早紀)とはじめ(柄本時生)の行きずりの恋を描いた「ナポリタン」、腱鞘炎になったマスターを一時的に助けることになるみちる(多部未華子)と千恵子(余貴美子)の師弟関係を描いた「とろろご飯」、3.11で引き裂かれた謙三(筒井道隆)とあけみ(菊池亜希子)の関係性を描く「カレーライス」の3話構成で物語は進む。
MBS系列のドラマは『闇金ウシジマ君』も『ディアスポリス』も、劇場版では物語を進めようと欲が出てしまい、強引にバイオレンスに舵を切ったことでドラマ版の旨味がごっそり消えてしまった印象だが、それら2作と比するとこのブレのない安定感は特筆に値する。大森立嗣とコンビを組む撮影監督の大塚亮と松岡錠司の演出は地に足のついた構図と据え置きカメラで登場人物に寄り添う。常連客らの息の合ったやりとりを据える冷静なカメラの視線。マスターが常連客に差し出す食事と美術の妙。映画だからというプレッシャーで「めしや」の外へ外へと向かいたくなるところを、あえてみんなが来る「故郷」としてのめしやの魅力的な磁場に全てを賭け、この狭い空間の中に幾多の人間ドラマを盛り込む監督の判断が素晴らしい。その中でも特筆すべきなのは、松岡錠司が自らの映画的記憶で紡ぎ出したゲスト俳優たちの生身に他ならない。第1話「ナポリタン」で堂々たまこ役を演じた高岡早紀、第3話「カレーライス」で同じく謙三役を演じた筒井道隆両名は、松岡錠司の処女作『バタアシ金魚』を支えた主人公の2人で実に感慨深い。勘の良い高岡早紀と、ひたすら不器用で監督に怒鳴られ続けた筒井道隆の起用は確かに、松岡錠司の根底にある情けない男と気の強い女の構図を一際鮮明にする。原作の漫画版には出て来ないよもぎ町交番勤務の小暮(オダギリジョー)の描写も、『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』のその後を強く印象付ける。主人公である小林薫も『歓喜の歌』の飯塚を真っ先に想起せずにはいられない。
このように自らのフィルモグラフィを彩った役者たちを思い入れたっぷりに要所要所に配しながらも、高岡早紀が演じた第1話よりも筒井道隆が演じた第3話よりも、第2話のクオリティが群を抜いているのは偽らざる事実である。多部未華子という女優は失礼ながら誰のどの作品を観てもあまりピンと来ていなかったのだが(同世代の女優たちと比べて魅力を見つけにくい女優だったのだが)、今作の栗山みちるを見て、初めて合点が行った。愛した男タダオ(渋川清彦)に騙され、貯金(上京資金)を奪われた女はまさに貧困ビジネスの罠に陥った薄幸の女に違いない。搾取された女は、赤の他人を搾取し返すことで自らの欲求を満たす。しかしその束の間の幸福は長くは続かない。贖罪の思いに晒された女は搾取した男に謝罪に訪れるが、マスターは彼女の罪を随分あっさりと赦してしまう。腱鞘炎というマスター最大のピンチを糸かぼちゃで埋める北陸出身の薄幸の女の描写は、これまでのどの作品よりも女優・多部未華子の魅力を最大限に引き出す。ネット・カフェで窮屈な生活を送っていたヒロインが、マスターから合鍵をもらい、「めしや」の2階に住まわせてもらった際の母親の子宮の中のような安心感。四方をキョロキョロしながら、ようやく自らの住処を見つけたみちるが畳の上にゆっくりと寝そべる様子は、不思議な既視感に襲われる。彼女とマスターを愛した女(さながらリリー松岡のような存在感)の余貴美子との三角関係が物語に深みを持たせる。映画を観ているのではなく、テレビを観ているような既視感のある作品だが、第2話の多部未華子の充実ぶりだけでも観ておいて損はない。
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