【第369回】『キャロル』(トッド・ヘインズ/2015)
1952年ニューヨーク、誰もがコートを羽織り背中を屈めて歩く凍てつく冬の寒さの中、ある運命的な出会いがテレーズ(ルーニー・マーラ)に待ち構える。ジャーナリスト志望の彼女は夢への階段をなかなか昇ることが出来ずに、クリスマス・シーズンの書き入れ時にデパートの玩具売り場で臨時のアルバイトをしている。従業員入り口ではサンタクロースの帽子が1人1個ずつ支給され、売り場責任者ではない彼女は持ち場につくと、ゆっくりと開店の合図を待っている。サンタクロースの帽子を被り忘れた彼女は売り場責任者に遠くから目でたしなめられるが、その最中に大勢の客の中で1人の女性の美しさにあっという間に魅了され、目が釘付けになる。まるで『ベルベット・ゴールドマイン』でアメリカに渡った最初のフェスでカート・ワイルドに出会ったブライアン・スレイドのように、滝に打たれたような衝撃を受けた彼女はしばらくその美しいご婦人の姿を凝視したまま目を離さない。高貴な赤い口紅、透き通るような白い肌、見るからに高そうな毛皮のコート、上品なヒール。この女性の完璧なルックスに一目で心奪われることになる。客からのトイレはどこですかとの問い合わせで一度目線を外し、すぐに売り場の一番奥に目をやると彼女の姿はもうそこにはない。だが失望感に襲われる暇なく彼女の傍にはその女性がいて、親しげに声を掛けてくるのである。あまりにも完璧なショット、人物の動線による鋭い導入部分が明らかにするように、今作は「見つめること」と「見つめ返すこと」の視線のドラマである。
一連の注文のやりとりの後、彼女の姿は視界から消えるが、そこには忘れ形見のようにブラウンの手袋が残される。彼女は4歳の娘の玩具を買った達成感と共に、うっかり売り場に大事な手袋を置き忘れてしまう。クリスマス・シーズンで多くの顧客の注文が集まる中、一際彼女の注文を注意深く気に留めるテレーズに、思いがけなく感謝の電話が届く。こうして故意なのかただの偶然なのかわからないまま、2人は顧客とアルバイトの関係性を越えて、初めて会うことになる。2人でご飯を食べに行った時の他人行儀なよそよそしさ、テレーズはキャロル(ケイト・ブランシェット)と同じ食べ物と飲み物を注文する。2人は互いの名前とミドルネームを復唱し合いながら、何とも言えない気恥ずかしさの中、ゆっくりと打ち解けあっていく。2人は身分も違えば、着ている服の趣味や髪の色も違う。何より年齢が違っている。レストランよりも狭く、2人だけの世界が約束された車内での濃密な空気、確かに交わしているはずだがスクリーンの外には聞こえてこない会話の数々、一切の光が遮断されるトンネルの中で2人の気持ちが溶け合うような濃厚さは今作の美しいフォルムをより美しく滑らかに動かしている。
厳密に言えば、50年代でも3、4年の違いはあるものの、今作を同じく50年代の風土を下敷きとした『エデンより彼方に』と比較してみると実に様々な類似点が浮かび上がる。おもちゃ売り場に置き忘れた手袋は、風に飛ばされて高い木の枝の上に落ちたマフラーであり、夫の同性愛のカミングアウトは今作では妻の告白へとトレースされている。それ以上に根本的な時代背景、50年代のマッカーシズム溢れる厳格な空気、第二次世界大戦終結後に冷戦に突入し、その後共産党員やその協力者たちの赤狩りへと繋がった沈黙の時代の重苦しい空気の中、上流階級で暮らすキャロルと夫との結婚生活は最初から既に破綻している。夫に向けられたキャロルの目は、テレーズに向けられるものとは明らかに別種の侮蔑のような厳しい目だが、それでも夫は妻が最終的には自分の元に帰って来ると愚かにも信じている。だがキャロルの同性愛はレズビアンのような呼称に収められるものではなく、彼女の生き方の本質であり、ファッションではない。夫に奉仕する献身的な妻でもお飾りの妻でもない。当時はまだまだ同性愛が21世紀のように一般的ではなく、上流階級で生活する人たちは自分を偽りながら日々を生きていた。キャロルにとっても私生活を偽装するための環境は申し分なく整っている。だがキャロルは思いがけなくテレーズと出会ってしまったのである。この緩やかな恋の引力は例え夫であろうが引き離すことは出来ない。トッド・ヘインズは自由がなかった時代の自由を、現代的な視点から逆算し的確に描写している。
やがてキャロルとその夫の不和の原因に、アビー(サラ・ポールソン)というかつての同性愛パートナーの存在があったことが明かされる。夫はアビーとキャロルの仲を無理矢理に引き裂き、家族の修復を目論むがそこにまたテレーズという女性がタイミング悪くやって来て彼の希望を塞いでしまう。キャロルがレストラン、マイカーに続いていよいよ自らの邸宅に招き入れたテレーズの姿。それを最初に見た夫の狼狽ぶりは実に痛々しい。父性の回復目前まで来ていたはずの明るい家族計画が一変に崩壊する事態に陥り、深い絶望でキッチンに膝をつき大声で泣きわめく。テレーズが部屋でレコードを聴く中、妻にすがるように一緒に来てくれと懇願するが、キャロルは夫の精一杯の愛情をきっぱりと拒否する。まるで『エデンより彼方に』におけるホーム・パーティの後のソファーでの拒絶が、男女入れ替わり繰り広げられるかのように完全に修復不可能になった夫婦の姿を前にして、テレーズはただ黙ってステレオのボリュームを上げるしかない。新しいカメラとビリー・ホリデイのLPの交換がいよいよキャロルとテレーズとの関係性を急速に縮めていく。そこに一筋の亀裂のように、泥沼の離婚調停と娘の親権問題が波風となり拡がっていく。
女同士の決定的な2人旅は現実からの逃避の旅であり、自分自身のアイデンティティを取り戻す旅でもある。中盤からは行きずりのロード・ムーヴィーの様相を呈するが、皮肉にも2人の仲を引き裂いてしまうのはここでも外部からの厳しい監視の目である。キャロルの大らかで男っぽい性格にテレーズは魅了されるが、偶然見てしまったスーツケースの中に隠してあったピストルにキャロルの弱さを見つけ、彼女の心は酷く悶える。彼女の力にならなければと精一杯思案に暮れるが、思いつくのはせいぜいピストルの弾を抜くことくらいしか考えつかない。だがそのテレーズの優しさがキャロルのこれ以上の落下を阻止する防波堤となる。キャロルと入れ替わるようにテレーズの前に現れたアビーは、どことなくテレーズを彷彿とさせる。デパートの玩具売り場での出会いの忘れ形見のようなブラウンの手袋のように、アビーに託した言付けと手紙だけが僅かにキャロルの面影を残す。ニューヨークからウォータールーまではいったいどのくらいの距離があるのか私にはまったくわからないが、激しい後悔と絶望感に苛まれたテレーズの帰りの光景がどれだけ残酷で長いものだったのかは想像に難くない。ここから終盤までの別々に隔離された2人の禁じられた関係性の描写は実に重苦しい。キャロルの離婚調停中の夫への激昂は自身の責任であることは明らかだが、彼女は乖離していく自身の立場と心の間で葛藤し、同性愛者としての誇りを選ぶことになる。『エデンより彼方に』で精神科医を紹介された夫が絶望に打ちひしがれる場面があったが、今作でもキャロルは自分の置かれている状況が病だとはまったく考えていない。だからこそ夫の両親の言葉に苛立ちを見せるのである。
クライマックスの再会の場面は涙なしには観ることが出来なかった。おそらくテレーズにとっては生まれてからこれまで一度も恋をしてこなかったはずであり、キャロルとの出会いが初めて人を好きになった瞬間でもある。自らの才能に賭け、自分の選んだ新しい環境でジャーナリストへの道を歩き始める。その大きな成長と決断の裏にキャロルとの出会いがあったのは言うまでもない。キャロルも恵まれた上流階級での暮らしやお飾りの妻のイメージを捨て、バイヤーとして働く決意をする。ヘインズのこれまでの作品同様に、自我に目覚めた女性は自分の足で立とうとし、厳しい社会の中でもがきながら少しずつ成長していく。そしてその前進を支えるのが、人間と人間の美しい関係性であることは揺るがない。出会いの玩具売り場の場面が「見つめること」と「見つめ返すこと」のプリミティブな喜びに満ち溢れていたとしたら、ラスト・シーンの視線の交差はより多面的な、簡単に言葉に出来ない感情が互いの中に滲んでいる。その有機的な心の触れ合いを丁寧に積み上げてきたからこそ、私たちは自然に涙が溢れる。もう一つの感情の増幅を現す場面が冒頭に見られたレストランの雑踏の中での飲食中の男性の乱入の場面である。この場面を冒頭に観た時感じた思いと、クライマックスで観た時に感じる思いの変容は何も時間の経過だけではない。その変容こそを贅沢に味わいたい映画である。
最後にもう一つだけ熱っぽく言わせてもらうならば、視線を交わすことの美しさがこれほどまでに強調された映画を、現代ではほとんど観ることがない。キャロルとルイーズに限らず、アビーもリチャードもハージも、別れの瞬間には何とも言えない悲しい目(表情)をしているのである。赤い口紅とマニキュア、ブロンドの髪、ミンクのコート、粉雪が舞うニューヨーク、丸みを帯びたビンテージ・カー、高級ホテルのインテリア、ポートフォリオ、シルバーの銃、粒子の荒れたスーパー16の質感など細部に渡る徹底的な時代考証と道具立ての素晴らしさはトッド・ヘインズならではのイメージを誇る。コーエン兄弟とのコンビでお馴染みの作曲家カーター・バーウェルのスコアも美しい余韻を残す。テレーズがピアノでおぼろげながら弾きこなすBILLIE HOLIDAYの『Eazy Living』、そして全ての感情がさざ波のように押し寄せるJO STAFFORDの『NO OTHER LOVE』の筆舌に尽くしがたい極上の美しさ、そういう点と点を結び、線にする緻密で丁寧な筆致があまりにも素晴らしい。
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