【第437回】『完全なるチェックメイト』(エドワード・ズウィック/2014)
アイスランドのレイキャヴィークの丘陵地隊を走る一台の車、物々しいサイレン。モノクロテレビの中では、世界各国の言葉でチェスのニュースが伝えられる。静寂過ぎる室内、男はそっとカーテンを開け、真っ暗闇に視線を走らせる。その視線がオーバー・ラップし、時代は1951年に遡る。第二次世界大戦が集結し、トルーマン大統領の「トルーマン・ドクトリン」に端を発するアメリカとソ連の冷戦時代。マッカーシズム溢れる重々しい監視下の空気。同じように彼はカーテンを静かに開け、中の様子を伺う黒塗りの車を目撃する。ニューヨークの貧しいユダヤ人家庭、父母は既に離婚し、母と姉との3人暮らし、共産主義者の母親はFBIに監視されている。彼は母親を救いたい一心で、外の怪しい車について密告するが、母親は意に介さない。物心ついた頃から父親不在の息子は、赤狩りで母親まで奪われるのを心底恐れている。微かな物音、僅かな光にも反応する彼の神経過敏な性格はこのような幼少期の体験に由来し、寝室に置かれたチェス盤に自然と彼の手は伸びる。木製の四角四面、白と黒のマス目、様々な形をした駒、チェスの中にしか自分自身を見出すことの出来なかった少年は、それから飛躍的な進化を遂げる。シングルマザーのレジーナ(ロビン・ワイガード)はチェスばかりしている息子が負ければ諦めるだろうとチェスクラブに誘い、大人と勝負させる。母親の読み通り、惜敗した息子は後ろを向くと、目に涙を浮かべている。しかしクラブ・オーナーの「この子は才能があります」という言葉に涙を拭き、再戦を申し込むのである。
順調すぎるくらいの成長により、当時の史上最年少記録となる15歳でグランドマスターに輝く。破竹の快進撃を続ける男は、1962年ブルガリアで行われたチェス・オリンピアードの舞台にいる。相手のロシア人の打ち手を待ちながら、斜め前にいるボリス・スパスキーに目をやった時、彼の病的な神経が唐突に顔を出す。真空状態になる音、ノイズは徐々に烈しさを増し、幻覚に目が眩む。再び目の前の男に視線を落とすが、一向に駒を打つ気配がない。次の瞬間、絶叫し立ち上がったボビーはソ連チームの不正に激怒し、大股で会場を立ち去る。この一連の行動に彼の奇行の一端が垣間見えるが、それはあくまで序章にしか過ぎない。ここから彼の病気は進行し、IQ187の天才はチェスの悪魔に取り憑かれ、見る見るうちに狂い出す。変な音がすると電話機を分解し、部屋では絶対に大切な会話はしない。現代で言えば明らかに「統合失調症」かそれに類する神経症的な病気を抱えている男は、母親どころか姉にも直接会おうとしない。そのくせ律儀なまでに母親への電話を繰り返し、姉への手紙の送付をやめることがない。だがその文面は徐々に狂い出し、反ソ連、自身はユダヤ系にもかかわらず、反ユダヤを標榜し、ホテルの部屋では怪しい講話を一晩中聴いている。ソ連の一強時代を切り崩した真にエポック・メイキングな英雄にもかかわらず、傍若無人な要求と試合のボイコットも辞さない彼の態度は、次第に世間の並外れた英雄の評価さえも変えてしまう。引退、復帰を繰り返し、精神の病が限界に達した男は、カリフォルニアの広大な海を前にして気を失っている。そこに偶然ボリス・スパスキーを目にしたことで、彼は突如狂ったように汚い言葉を投げ掛ける。ポール・マーシャル(マイケル・スタールバーグ)、ビル・ロンバーディ神父(ピーター・サースガード)のサポートを得て、ようやく冒頭のアイスランドのレイキャヴィークでのボリス・スパスキーとの再戦に臨むのだが、ここでも彼の病理は暗い影を落とす。
空港での逃走、8mmカメラの音への執拗なこだわり、観客の咳払いへの異常な反応、卓球室での無観客試合の要求など、ボビー・フィッシャーの常人には到底理解出来ない病理はここに来て最高潮を迎える。将棋・囲碁・チェスなどのボード・ゲーム競技の多くが競技者が椅子に座ることで、動的な動きが制限されるのに対し、ブラッドフォード・ヤングの撮影方法は、プレイヤー同士の視線の動きを、8mm映像も用いた短いカット割りで積み上げることで静的な癖を回避する。チェスの悪魔に取り憑かれたボビー・フィッシャーの不可解な言動と、あまりにも意表をつく斬新な指し手が、やがて対戦相手のチャンピオンであるボリス・スパスキーの狂気さえも導き出す様子は圧巻の一言に尽きる。椅子から妙な音がすると主催者にクレームを入れ、ローラーの部分を手回ししながら様子を伺うスパスキーの姿、それを横目でじっくりと凝視する神経症的なトビー・マグワイアの目があまりにも印象的である。レントゲン写真をしげしげと眺めながら、何とも言えない表情を浮かべるスパスキーの姿も、ボビー・フィッシャー同様に既にチェスの悪魔に魅せられ、ラビットホールにすっぽりと落ち、敵の術中にはまった狂気の落伍者に過ぎないのである。かくしてキッシンジャーやニクソン、ブレジネフの期待を背負ったアメリカとソ連の血みどろの代理戦争は、あっと驚くような劇的な結末を迎える。50年代のルックが見事な背景や道具立てをもって然るべき効果をもたらしているのに対し、70年代の描写がやや散漫な印象は否めないものの、冷戦下の構図で英雄にもなり、同時に戦犯にもなった破天荒な天才ボビー・フィッシャーの生き様を描写したエドワード・ズウィックの筆致は実に誠実で隙がない。ありきたりなロマンスや友情を捏造しない姿勢、チェスに取り憑かれた2人の男の丁寧な描写には大いに唸る。2016年の忘れ得ぬアメリカ映画の1本に違いない。
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