【第486回】『マネーモンスター』(ジョディ・フォスター/2016)
歯に衣着せぬ軽快なトークと毒のあるコメント、意表を突くようなHIP HOPダンス。FNNの金融番組『マネーモンスター』では今日も人気司会者リー・ゲイツ(ジョージ・クルーニー)が軽快にお茶の間を煙に巻く。その人を小馬鹿にしたような冴えた話術は、政治討論番組に向いている気がするが、彼が現在担当するのは財務テクノロジーを駆使した錬金術指南。株価の乱高下、上昇株の推奨、金利の推移をふざけた小道具やクラシック映像、真っ赤なボタンやベル、ブーブークッションを駆使し、お茶の間にわかりやすく解説する。冗談のような話だが、彼は「ウォール街の魔術師」の異名を持つ。生放送1時間前の局内の混乱、裸の王様として人気番組を取り仕切る男の横柄な態度。トイレにこもり、便器についたまま動こうとしない彼を、ドアをノックし、必死に会話しようとするのは『マネーモンスター』のプロデューサー兼総合ディレクターのパティ・フェン(ジュリア・ロバーツ)。人気司会者とプロデューサーとして、数十年コンビを組んできたお似合いの2人だが、パティは一向に言う事を聞かないゲイツの行動に嫌気が差し、転職さえ考えている。若手職員へのセクハラ、同性職員への辛辣な嫌味。生放送数分前までロン・スプレチャー(クリストファー・デナム)に勃起薬の効能を確かめる男の真意は定かではなく、視聴者同様に、お付きのスタッフさえも煙に巻くリー・ゲイツの態度にパティは半ば呆れている。そんな矢先に事件は起こる。
株の売買による一喜一憂、勝者と敗者の圧倒的な区分けを描いた作品と言えば、直近ではアダム・マッケイの『マネー・ショート 華麗なる大逆転』が思い出される。あちらは金融用語の基礎知識を一通り把握していなければ、細部を理解するのは困難な作品だったが、今作は金融問題を扱いながら、人間関係に軸足をずらす。端的に言えば、株で人生がオワコン化した男の劇場型の復讐ショーである。ジョディ・フォスターが監督したとなれば、我々は無意識にクラリス・スターリングを思い出し、ハンニバル・レクターのような実に厄介で強大な忌々しいサイコ・キラーを連想するが、今作の犯人は拍子抜けするほど平凡な男カイル・バドウェル(ジャック・オコンネル)というあまりにも場違いな若者である。彼は突然、パティが確認するモニター・カメラの1画面の後ろにひょっこりと顔を出す。FNNビルのセキュリティをかいくぐる様子は一切明示されることなく、突如モニター画面の中にバグとして現れる。それゆえリー・ゲイツも最初はパティが用意した仕込みだと考えて取り合わない。いわゆるポール・ヴァーホーヴェン、トニー・スコット以降の衆人環視システムの膨大なモニター画面に覆われた映画は、劇場型犯罪を誘発する。局内で製作された生放送番組『マネーモンスター』の4つのテレビ・カメラ。それに加えて今作では本筋の映画の視点として4台のテレビ・カメラの邪魔にならないように、映画用の視点が常に緊張感を持ちながら、ゲイツとバドウェル、パティの三者三様のやりとりを切り取る。一見あまりにも凡庸なモニター映像は、作られた画面を熱心に眺める観客の姿がなければ成立し得ない。苦心した監督ジョディ・フォスターはアメリカだけに留まらず、遠く海を渡り韓国と南アフリカ共和国にもモニターを眺める人物を撮るためだけに飛んでいる。実際にはB班C班がジョディの意図を汲み、撮影したマテリアルであることは想像に難くない。だがこの涙ぐましいまでの労力が作品の質に貢献しているかと言えば、必ずしも正比例しないのが映画の悩ましいところである。
登場人物のほとんど全てがシニカルな台詞を吐くのは、ジョディ・フォスターというインテリ女優のシニカルさに負うところが大きい。子役からキャリアをスタートさせた稀代の名女優には、自分がハリウッドの女性監督の歴史のドアを開いたのだという自負もプライドもある。まるでリー・ゲイツの女房役のようなパティ・フェンの華麗な手綱捌き、傍若無人だったリーの厄介な口調を制し、中盤からイヤフォンで告げられる彼女の言葉に、ゲイツは一言一句誤ることなく従い、繰り返す。それに対し、物語の伏線となるアイビス・クリア・キャピタル社の方でも、CFOエイブリーやCEOウォルト・キャンビー(ドミニク・ウェスト)ら男性執行役員たちの横暴に反旗を翻すのは、キャリアウーマンであるダイアン・レスター(カトリーナ・バルフ)の問題提起に他ならない。また事件の発端になったカイル・バドウェルの崇高な世直しに対しても、彼の恋人であるモリーはたかだかモニター画面の枠内でブチ切れる。中盤、人々の同情を引こうとしたゲイツの泣き落としが、まったく効果を示さなかった場面の呆然としたゲイツの表情にも明らかなように、今作では男性たちは恥をかかされ続ける。ダメな振る舞いをするのは全て男性であり、その傍若無人な振る舞いに待ったをかけるのは女性なのだ。それを更に裏付けるかのように、今作に現れる男性警察官たちの無能ぶりはあまりにも不可解に映る。犯人と被害者の気持ちの同化は何もこの映画に限ったことではないが、男たちのダメっぷりを、ひたすら冷笑に伏すのがジョディ・フォスターの態度だとしたら、映画は全体のバランスで言えば随分と傾いてしまう。
私の見立てでは監督ジョディ・フォスターという人は、一貫してゴリゴリのリベラリストだったはずである。『ホーム・フォー・ザ・ホリデイ』や『それでも、愛してる』の演出も決して悪くなかったが、処女作『リトルマン・テイト』の鋭い演出には遠く及ばない。作品の質を鑑み、徐々に制作費・演出規模が縮小されていく自作への焦りを経て、今作はようやくジョディが語りたいことと商業主義との妥協点が見つけられた作品と言えるかもしれない。だが出来あがった作品は、冒頭こそ優れたサスペンス長編の予感がしたが、結果的には従来のゴリゴリの左翼主義映画の誹りを免れない。1%の強者が99%の弱者を鼻で笑うのが現代社会だとしても、そこにプラスアルファで何が出来るのか考えるのが映画作家の仕事であり、使命であろう。私は右にも左にも触れない映画こそが優れた映画だとは思わないが、ジョージ・クルーニー、ジュリア・ロバーツという一昔前のビッグ・スターの好演を経ても、監督としては何かが決定的に欠けていると云わざるを得ない。狂気を代弁するはずだったジャック・オコンネルの振る舞いは、大先輩ジョージ・クルーニーに明らかに遠慮し、迫力不足は否めない。ある限定された空間での登場人物たちの悲喜劇という観点で言えば、女優として出演したロマン・ポランスキー『おとなのけんか』をヒントにもしているが、それにしても限定された空間を逸脱してからのアクションが芳しくない。役者が撮った映画をイーストウッドあたりと比する気は毛頭ないが、それにしてもショーン・ペンあたりと比較しても随分寂しいと感じるのは私の我儘だろうか?
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