【第543回】『X-メン』(ブライアン・シンガー/2000)
1944年、豪雨の降るポーランドのアウシュビッツ収容所前、マグニートー少年の父母は強制収容所へ連行される。母親の絶叫と少年の涙。無情にも閉まる鉄柵を前に、少年は母親を追い求めすがりつく。その力は既に大人4,5人でも抑え込めないものであり、鉄柵はくの字に曲がるが、棒で頭を叩かれた少年は気を失う。一方その頃、ミシシッピの実家では高校生になるローグ(アンナ・パキン)が初めての彼氏を部屋に呼んでいた。1階から聞こえる母親のピアノの音。一緒に旅のプランを考えていた若いカップルはベッドの上でそっとキスをする。次の瞬間、彼氏の顔の血管が異様なまでに浮き上がり、昏睡状態に陥る。ローグの絶叫で階段を駆け上がった両親は彼氏を介抱するが、息を吹き返すことはない。それから数年が過ぎたカナダのノース・アルバータ。自分の力が元で地元に入れなくなったローグはただ一人流浪の旅に出ている。ヒッチハイクで乗せられたトラック運転手が降ろしてくれた場所は地下格闘技場。恐る恐る中に足を踏み入れた少女は、金網の中で無敵を誇るウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)と出会う。彼の荷台に隠れたところを見つかり、成り行きで始まった2人の旅。他愛ない話を続ける2人の前に突如障害物が飛んで来て、脱輪し雪の中に転げ落ちる。狙っていたのは大男のミュータント。ウルヴァリンとローグの危機をサイクロップス(ジェームズ・マースデン)とストーム(ハル・ベリー)が救い出す。2人は「恵まれし子らの学園」にウルヴァリンとローグを運び込む。そこにはプロフェッサーX(パトリック・スチュワート)というリーダーの姿があった。
マーベル・コミックスの映画化として、大ヒットを記録した『X-MEN』旧3部作第1弾。今作はいわゆる主要登場人物たちの顔見せであり、序章となる。監督を務めたのは90年代に金字塔を打ち立てた『ユージュアル・サスペクツ』のブライアン・シンガー。突然変異の集団であるミュータントたちへの人間界の反発は日に日に高まり、ケリー上院議員(ブルース・デイヴィソン)らによるミュータントへの排外運動は日を追うごとに激しさを増していた。プロフェッサーXとマグニートー(イアン・マッケラン)というかつて友情で結ばれていた2人は、互いにいがみ合っている。ゴジラでもエイリアンでもミュータントでも同様に、人間たちは保護すべきか、駆逐すべきかの二者択一を強いられる。だがここで重要なのは、ゴジラやエイリアンとは違い、ミュータントは人々を襲う意思のない者として、人間世界の中で肩身の狭い思いをして生きている。ウルヴァリンもローグも、人間としての当たり前の幸せを知ることなく育ったため、一貫して日陰の道を歩むことになる。地下の住人だったウルヴァリンがローグに会うところから、ミュータントに生まれた宿命を背負うまでのメンターとなるのは、プロフェッサーXである。今作をSF映画の傑作たらしめているのは、このパトリック・スチュワートとイアン・マッケランの光と影の相克関係に他ならない。『スター・ウォーズ』のオビワン・ケノービとダース・ベイダー同様に、プロフェッサーXとマグニートーも同じ出自を持つが、どこかで袂を分かった人物であることが暗喩される。
今作は表層だけのSF映画だと思われがちだが、人間たちの排外主義に存在を脅かされ、マイノリティが堂々と生きられないという21世紀的テーマを根底に有している。プロフェッサーXとマグニートーの葛藤も、ウルヴァリンやローグの孤独感も、人間たちの身勝手な都合に翻弄され、互いにいがみ合うことを求められているのが、20世紀の正義vs悪の単純な構図との決定的な違いだろう。ジーン(ファムケ・ヤンセン)、サイクロップス(ジェームズ・マースデン)、ストーム(ハル・ベリー)ら主要キャストの技や背景などの細かいキャラクター描写は幾分駆け足だが、それぞれのロマンスの行方を追いながら、来たるべき『X-MEN』チームの序奏となる展開が心地良い。ミスティーク(レベッカ・ローミン)の影の薄さも第1作ならではのものとなっている。ブライアン・シンガーの演出もCG/VFXを出来るだけ抑え、夜景描写、水辺などシンガー独特のビジュアル・イメージを用いながら、人間ドラマを丁寧に紡いでゆく。ブライアン・シンガーのアクション/SF映画の資質を疑う声は多かったが、次作『X-MEN2』ではその声を黙らせるような面目躍如な活躍を果たす。今作は皮肉にも「マイノリティの扱い」に揺れる現代アメリカの問題を、20世紀初頭に浮き彫りにしていたと言っても過言ではない。
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