【第488回】『教授のおかしな妄想殺人』(ウディ・アレン/2015)
まばゆい陽光に彩られたアメリカの東部ニューポートにある大学キャンパス。広い敷地内には緑が生い茂り、ちょっとした散策スポットさえ見受けられる。大人へと成長する過程、学生たちの青春時代、お昼休みの噂話、彼女たちはキャンパス内の恋愛話で終始盛り上がる。やがてこの街の海岸沿いを一台の車が颯爽と走る。ハンドルを握る男は、眩しい光を遮るようにサングラスをしているため、その表情を窺い知ることは出来ない。だがどこか憂鬱そうにも映る。学内に到着した男は、雇用主の部屋の在り処を学生たちに聞いて回る。彼はこの大学に赴任してきた新しい哲学教授エイブ(ホアキン・フェニックス)。心機一転、新生活をゼロから始める喜びに満ちているのかと思うと、どうやら様子がおかしい。新しい部屋を案内する黒人女性の説明に耳を傾けず、あろうことかポケットから取り出したスキットルのボトルを差し出し、「これ呑む?」という素っ気ない言葉。女は真っ昼間から酒なんて呑まないわと笑いながら応えると、ほとほと困った様子で彼はスキットルに入れられた大好物のシングルモルトを呑み干す。今作は「勃起不全」となった男のシニカルな回復劇である。若い頃には政治活動にのめり込み、ボランティアとして世界中を飛び回り、理想に燃えた主人公は愛した妻に逃げられ、「人生は無意味である」という結論に到達している。たまたま書いた論文が認められ、哲学教授になったものの、40過ぎの彼には背負うべき妻や子供たちの存在すらない。一貫して孤独で憂鬱な中年男性の悲哀を、ウディ・アレン独特のシニカルな視点で描いている。
何度も洗濯し、色落ちしたラコステのポロシャツ、ブラウンやベージュ色の地味なスーツ、尋常じゃないほど出っ張ったビール腹。一貫して冴えない風貌の男だが、どういうわけか女にはモテてモテて仕方ないというのが、ウディ・アレン作品の登場人物らしい。彼を誘惑する科学教授リタ(パーカー・ボージー)の熱烈なアタック。冴えない男は、長年連れ添った夫との不和を抱える中年女の不倫願望を大いに満たす。数日前の批評で『サウスポー』の主人公ジェイク・ギレンホールが7kgも減量し、撮影に臨んだと書いたが、今作のホアキン・フェニックスは対照的に15kgも増量し、徹底してエイブの人物造形になり切る。さながらデ・ニーロ・アプローチの対照的な図式と言えよう。どこか憂鬱そうで、いつ死んでもおかしくない生気の欠けた人間を演じさせたら、ホアキン・フェニックスの右に出るものはいない。言わずと知れた繊細な90年代スターだった伝説の故リバー・フェニックスの実の弟であり、オーバードーズで死にゆく兄を救急車で運んだ忘れることの出来ない痛みを抱えたホアキンは、その後、ガス・ヴァン・サントの『誘う女』やオリバー・ストーンの『Uターン』で、一貫して影のある憂鬱な男を好演した。そんな彼の憂鬱なヒーロー像を決定付けたのは、PTAの『ザ・マスター』に他ならない。戦争後遺症に苦しむ退役軍人を演じ、故フィリップ・シーモア・ホフマン扮する新興宗教の教祖を呑み込む巨大なモンスターは、9.11以降の自由の国アメリカのメタファーとして痛烈な痕跡を残した。その神経症的で繊細な暴力衝動は、ルックスこそまるで違えど、若き日のリバー・フェニックスを確かに彷彿とさせる。ウディ・アレンの主役抜擢の真意はわからないが、アレンがPTAの『ザ・マスター』に触発されたことは想像に難くない。彼は生粋のニューヨーカーとして知られていながら、9.11以降、喜劇が撮れなくなったとしてヨーロッパへと渡る。今作はアレンにとって『メリンダとメリンダ』でニューヨークを離れて以降、『人生万歳!』『ブルー・ジャスミン』以来3度目のアメリカ復帰作に他ならない。
『ブルー・ジャスミン』の陰鬱さにも似た、笑うに笑えないシニカルなユーモアは、80歳に達した監督の老い先短い死への恐怖、若者たちへの言いようもない嫉妬の感情を同時に内包した。そもそもウディ・アレンにとって、自らが立つべきはカメラの前であって、後ろではない。70年代、自らが監督・出演・脚本をこなし、ダイアン・キートンやミア・ファローら実際の恋人関係にあった女優たちを、自らの作品世界の中で伸び伸びと演じさせ、当時のアメリカ映画を席巻したのは記憶に新しい。毎年1本コンスタントに映画を撮り続ける姿勢は、アメリカの良心として久しく認知される。だがその作風は90年代半ばから徐々に新鮮味が薄れ、自らの豊潤なフィルモグラフィの縮小再生産を続けているのは否めない。今作もその哲学的な思考と存在の実存的なランダム性が、真っ先にアレンの旧作である89年の『ウディ・アレンの重罪と軽罪』を彷彿とさせる。運命に翻弄された男と女の主題は、同じくアレンの旧作である2005年の『マッチポイント』にも非常に似通っている。カント、ハイデッガーなどの哲学者たち、ドストエフスキーの『罪と罰』、ベルイマンの影響、死をも恐れないエイブ教授が学生パーティーの席でロシアン・ルーレットに暮れる姿には、北野武の『ソナチネ』のビートたけしと同等の狂気を内包する。結局のところエイブは、ロシアンルーレットを数字に支配された確率論でしか据えていない。だが人間の心は簡単に読み解けると思っていた男が、中盤以降、「偶然」や「直感」といった言葉を何度も繰り返す。オム・ファタールとして教え子のジル(エマ・ストーン)から羨望の眼差しで見つめられていた男が、ファム・ファタール然としたジルには一向に惹かれることなく、ただひたすら自らの運命という快楽に酔いしれるシニカルさがウディ・アレンならではの毒を醸し出す。それにしてもこの冗長な物語の運び、20世紀の躁状態を脱し、ひたすら鬱表現に拘泥するウディ・アレンの手腕は、この先逆転が見込めるものなのか?それとも才能の限界なのかは今回も判断出来ずにエンドロールを迎えた。