【第463回】『川の流れに草は青々』(ホウ・シャオシェン/1982)
緑溢れる山々、靄がかった朝の水田地帯、台北から遠く離れたのどかな田園地帯では、今日も人々の生活が静かに始まろうとしている。トンネルを抜けてやって来る単線鉄道、瑞々しいブルーのディーゼル車がトンネルを抜けると、登校中の小学生たちが横並びに立ち、駅に向かって全力疾走で追いかけっこをする。ここは台北から通じるひたすら長い単線鉄道の終着地点。『冬冬の夏休み』のロケ地である銅羅(トンロー)と台北とのちょうど中間地点にある村・内湾(ネイワン)。登校する生徒の手から給食袋が川に落ち、幼い姉と弟は水面をしばし見つめる。校門前の線路を先ほどの青いディーゼル・カーが通過すると、勢いよく校舎になだれ込む村の子供たち。やがて朝礼の鐘が鳴り、学校のすぐ側に住む少年は、急いでランドセルを背負い、坂道をダッシュで駆け下りると、校庭に並ぶクラスメイトたちの後ろへ走りだすロング・ショットの光景。教室では答案用紙が返され、先生が悲しい表情で、家族とのインドネシア移住を知らせる。学期途中に降ってわいた悲しい報せ。子供たちが校庭で蹴球をしていると、背中にギターを抱えた青年が校庭に現れる。青年の前にゆっくりと転がるボール。「職員室はどこ?」という青年の問いに悪ガキたちは答えない。こうして臨時教師として学期末まで担任になることが決まったターニエン(鐘鎮濤)は田舎町に赴任して来る。
姉との入れ違いでの村への赴任。紹介された下宿先で主人公は運命のヒロインに出会う。今では休業中の映画館の二階、ここの管理人を音楽の先生チェン・ユースン(ジャン・リン)の両親がする縁で、2人はすぐに親密になる。2人の運命は最初の視線の交差ショットから全てが決まっていたかのようである。ステージに上がり、ミュージカル風に踊る人気歌手鐘鎮濤の嬉しそうにはしゃいだ歌声。肥満体の同居人との暮らし。微笑みかけるチャン・ユースンの笑顔。今作は前2作同様に、主人公とヒロインがロマンスに落ちるアイドル映画としての便宜上の体裁を保っている。更に免罪符として用いられるのは、子供達の屈託なき笑顔や無邪気な姿である。テストの点数を覗き見る姿、100点を取って自慢げにはしゃぐ少年、検便のうんちを冷蔵庫に保存する少年の可笑しな姿、テストに親の印鑑を勝手に押す子供、親に食事抜きを言い渡されるが、姉の機転により、勢いよく食事をする少年の姿、ホウ・シャオシェンの鋭い観察眼は、普遍的な子供心をしっかりとフレームに収める。川釣りの最中、大人が電気で気絶させ、魚を釣っているのを真似したところ、少年が誤って感電する場面など、若い時分の苦いエピソードを伏線として盛り込みながら、子供たちの好奇心と、ゆっくりとした心の成長にカメラを向ける。更に今作のレイヤーをより一層豊かにしているのは、途中に転校してくる身体の弱い美少女とガキ大将のうぶなロマンスである。成長の波に晒されるのは何も子供だけではない。『冬冬の夏休み』同様に、今作でも台北という大都会での生活に疲れた主人公が、田舎の自然溢れる森の中に分け入ることで、本当に大切なものを取り戻していく。ホウ・シャオシェンの映画は最新作『黒衣の刺客』に至るまで一貫して、美しい緑溢れる森の中に人間たちが吸い込まれていく。森、川、学校、子供、線路、電車、坂道、雨、映画館、自転車、ガジュマルの木などの数々の象徴的なイメージで映画を彩りながら、歴史という大きな流れの中に翻弄される田舎町の人々の姿を描く下地は早くも垣間見える。
中盤、校庭に現れた1台の車は文明社会からの警告のメタファーであり、その後、山道を散々連れまわされた主人公は、彼女の両親を悪く言うことで許しを請う。噂はたちまち村中に拡がり、ヒロインにさえ無視されるようになった主人公は父親に縋る。台湾や中国において結婚とは、両親の承認なくしては成立しないものだった。その傾向は日本以上に、台湾や中国の方では強かったのだ。前2作では盛んに親の求める政略結婚にヒロインを従わせようとしたが、今作では主人公のアイデアと機転が状況を打開する。監督は前2作のように三角関係や四角関係の恋の鞘当てにあまり深入りせず、目立たなかった成績優秀者の衆少年の父親の密漁を主眼に据える。魚に電気を走らせ、薬剤を撒き、自然環境を破壊した貧乏な父親の暴挙は、「愛川護魚」を掲げる主人公の理想とはかけ離れ、その姿はコミュニティの反感を買う。その様子に居た堪れずに、台北に住む離婚した母親の元へ衆少年と妹は家出する。やがて駅員に補導され、駅に駆けつけた先生と父親の姿を見た衆少年の失望は云うまでもない。彼は優しい母性を欲しているのである。ラストの環境保全の幸福なイメージに、コミュニティの一応の安定化は図られたように見えるが、台湾語を話す外省人である彼ら親子の未来は決して明るくない。一見、見事なアイドル映画を作る一方で、ホウ・シャオシェン独自の批評性やメッセージは至る所に感じられ、前2作までの田舎vs地方の構図以上の、隠しきれない普遍性と親和性を帯びている。台湾ニューシネマが世界を席巻した1980年代後半直前の、批評性とアンビバレントな幸福感に包まれた第1期の無邪気な傑作である。