【第404回】『ちはやふる 上の句』(小泉徳宏/2016)
もう会えないかもしれない初恋の人を思い続け、高校で「競技かるた部」を創設しようと奮闘するヒロイン。一方彼女への小学校時代からの淡い思いを断ち切れないまま、片道2時間の中高一貫校から普通校に編入を試みた男の再会場面は導入部分に早くも訪れる。桜の花が満開の校門前をクレーンカメラがゆっくりと下ると活気溢れる学校の様子が映し出される。綾瀬千早(広瀬すず)は男子学生たちの憧れの的であり、「競技かるた部」の仮の部室で彼女の新歓プレゼンテーションを男たちは鼻の下を伸ばしながらじっと見つめている。だが次の瞬間、千早がかるたを左手ではじくと、まるで凶器のような鋭い直線を描いて後ろの壁に突き刺さる。その様子はさながら居合にも似たスリリングな活劇性を帯びている。偶然同級生の女の子2人組に呼び出され、なぜかオートロックな昨今のハイスペックな屋上のドアによって 笑、学校中で最も高い場所に幽閉された太一(野村周平)を偶然にも片思いの相手・千早が救うことになる。5人のメンバーを集めなければ正式な部活とは認めないという宮内先生(松田美由紀)との約束は、もし5人集められなければ今年の大会にもエントリー出来ないということであり、それはすなわち高校生になっても淡い思いを抱き続けている綿谷新(真剣祐)との断絶をも意味することになる。
前半部分はこの5人の部員を集めるヒロイン千早のミッションとそれぞれのメンバーの紹介に大半の時間が割かれている。頭数に入れていなかった太一との再会はそのまま千早の頼みの綱となり、千早と太一の校庭での仲睦まじいやりとりを偶然横で見ていたテニス部の西田(矢本悠馬)は即断で「競技かるた部」に転部を果たす。残り2人の部員集めは至難を極める中、呉服屋の娘で日本文化と小倉百人一首をこよなく愛する大江奏(上白石萌音)が新歓ポスターを見つめる姿を偶然見た千早は全速力で彼女を追いかける。競技かるたの暴力性に眉をひそめつつも、小倉百人一首の背景や意味をも理解する奏を千早は強引に口説き落とす。ラスト1人、学年2位の優秀な成績ながら、仲間も親友もいない「机くん」の愛称で呼ばれる変人君を太一が熱烈に口説く。しかし最後は千早の言葉が「机くん」こと駒野(森永悠希)の心を動かすことになる。誰かに必要とされる喜びを初めて感じた彼は、「競技かるた部」メンバーそれぞれの傾向と対策をタブレットに用意し、頭脳で「競技かるた部」を下支えしようとする。そういう彼らの健全な精神、純粋な動機が物語を押し進めていくのであって、不良少年や不登校少女はどこにも見当たらない。ドSなライバルが一人だけ出て来るものの、ヒロインを思う仲間たちには今流行りの「壁ドン」をしそうな人間はおよそ見つけられそうにない。
「競技かるた」の烈しさ、熱狂はまさに格闘技そのものであり、自らの動体視力、知力、体力、集中力との戦いとなる。畳の上で相対する2人の接近した距離、自陣に三段に整然と並べられたかるたの列、それをプレイヤーは右に左にもの凄いスピードで叩き、鋭くまくし上げる。スローモーションで撮影された互いの手の動きはまさに居合の鋭さそのものであり、そうして吹っ飛んだかるたのえぐるような道筋はまるで弾丸のような迫力と殺気に満ちている。サッカー、野球、ボクシングなど映画史を彩る幾つかの花形スポーツに対し、囲碁、将棋、チェスなどのゲーム・スポーツがこれまで映像化されにくかったのは、人間が畳や椅子に座っているからであり、動的になり得ない静的な状態だからに違いない。だが今作において監督の小泉徳宏と撮影監督である柳田裕男の決断したアイデアが素晴らしい。事前に予測した登場人物と相対する対戦相手とのリバース・ショットを撮りながら映画を組み立てるのではなく、クライマックスでは5つの対戦を横並びに並べた壮観なロング・ショットを一度据えた後、それぞれのクローズ・アップに切り込んでいく。このじりじりとしたロング・ショットと鮮烈な感情を繋いでいくクローズ・アップの噛み合った生き生きとしたリズム感が素晴らしい。演者たちは畳に座り、一切の動きを制約されているものの、この一連のショットのリズムが今作をギリギリ活劇たらしめている。また対戦相手と自分たちの感情の独白シーンをほとんど入れていないのも好感を持った。複雑な心理的独白は物語を弛緩させてしまうだけであって、得策ではないはずだ。
アニメ原作作品の例に漏れず、癖の強い登場人物たちのキャラクターは「空気系」と呼ばれるゼロ年代以降のヲタク文化の強い影響下にある。それはむしろ映画よりもアニメの世界から邦画界に流入したある種の記号的トレンドに他ならない。『らき☆すた』、『けいおん!』や『涼宮ハルヒの憂鬱』に代表される一連の京都アニメーション作品、『魔法少女まどか☆マギカ』の持つ独特の切り口が緩やかに映画に影響を及ぼしている。学校という日常的な空間への物語の極端な矮小化、両親や兄弟関係の描写の決定的欠如、恋愛成就からの逃避と仲間同士での自己実現の可能性追求といういわゆる「空気系」アニメの三原則を今作は頑なに守っている。今作において彼らが動き回るフィールドはせいぜい学校と競技会場の往復であり、他にはせいぜい山が出て来るのみである。そこに温かい家庭や親兄弟は一切関与しない。これまでの青春映画に見られた高架下や薄暗いトンネルやゲーム・センターも登場しない。ただひとり例外的に綿谷新の家族の出現が、続編で起こりうるヒーローの困難を予感させるが、千早や太一の親兄弟がまったく出て来る気配もなく、彼らのメンターとなる宮内先生と原田さん(國村隼)の存在だけが彼らを支えている。学校からの帰宅の描写は何度も出て来るものの、どういうわけかそこに帰るべき家はない。これはいったい何を意味するのだろうか?
父性と母性の不在をぶっち切り、ひたすら幼年期の淡い恋心に寄り添うロマンチックなヒロインを広瀬すずが演じている。私は前作『海街Diary』を評して、「広瀬すずのデビュー作であり、代表作である」と断言したが、それはとんでもない誤りだったと認めざるを得ない。その小さい体のどこにそんなパワーをと思わせるほど、彼女のパワフルな演技は観客を魅了する。廊下の隅々まで躍動し、屋上ではスカートの中が見えそうなくらい大きな声を張り上げ、競技かるたの現場では一対一の殺気走った表情を見せる。そして戦闘終了後の気絶するクローズ・アップまで彼女は徹底して「女優・広瀬すず」であり続ける。その引き出しの少なさを逆手にとるようなストレートな演技に今作は引っ張られる。エキストラの切り取り方が粗雑だとか、真剣佑の方言があれはないだろうとか色々と問題点はあるにはあるが 笑、広瀬すずの等身大の演技を前に細かい粗は無効化する。一度もキス・シーンはないものの、これは21世紀の純然たるアイドル映画たる資質を備えている。
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