【第390回】『ホワイト・ドッグ』(サミュエル・フラー/1981)
売れない若手女優ジュリー(クリスティ・マクニコル)の運転する車が急なカーブを曲がるところでうっかり何かを轢いてしまう。恐る恐る車を降りた女は、そこに横たわる白い大きな犬を発見する。人気のない急カーブだし、別に逃げようと思えば幾らでも逃げられる場所だが、彼女は白い全身が真っ赤な血に染まった犬を助手席に乗せ、動物病院へと搬送する。彼女は犬の命を見殺しにしない勇敢な女性であり、女優としての仕事が鳴かず飛ばずで生活が困窮する中で、手術費を支払い、白い犬と一緒に暮らそうとするのである。こんなに良い飼い主に拾われて犬は幸せだが、女は毎日の生活の中であるおかしな事態に気付いてしまう。白い犬は彼女を襲うことはないが、例外的にまるで狂気で錯乱したかのような異様な歯軋りを見せる。野生の犬であれば彼女にもなつくはずないが、その犬は明らかにある人種を敵視するよう教育されている。久しぶりのジュリーの撮影現場に持ち込まれ、大人しく地面に伏せていたはずの犬が、黒人女性に飛びかかり、彼女に瀕死の重傷を負わせることになる。この一連のショットの残忍さや不穏さは明らかに『ショック集団』で芽生えたフラーの暴力性の延長線上にある。不法侵入しレイプしようとした男にはこのくらいの制裁が必要だが、丸腰の黒人女性を狙った凶行は意図的としか思えない。主人公は安楽死を主張する恋人に反対し、犬を正常に戻すため動物の調教場を経営するカラザス(バール・アイヴス)のもとを訪れる。
そこで明かされる「ホワイト・ドッグ」の恐るべき秘密とは、黒人差別主義者の調教師が小さい頃から訓練し、黒人を殺すように仕組んだ獰猛な殺人鬼だとわかるのだ。その衝撃的事実を耳にした主人公は、これまでの生命を重んじる自らの主張とは180度反対の主張、つまり悲劇をもたらすのであれば殺処分が妥当だと、飼い主ではなく一人の人間としての主張を展開するが、今度は逆に黒人の調教師キーズ(ポール・ウィンフィールド)が取り合おうとしない。これはフィクションの物語だが、実際に殺人犬がいた場合、どのような措置を取るのが妥当だろうか?調教場のオーナーであるカラザスも調教師のキーズも、もしこの情報がどこかから漏れた場合、とんでもない問題に発展することは予期しているのだが、犬を生かすという判断をした矢先、白い犬はあっさりと柵を飛び越えていく。犬の逃亡の最中、黒人少年の街路への飛び出しが犬に見えるか見えないかギリギリのところで行われる場面は、ホラー映画並みに圧倒的なスリルを観客に提供する。間一髪のところで未遂に終わったものの、次に出くわした大人が悲劇のターゲットになってしまう。教会のキリストのステンドグラスだけがこの殺人の現場を見ているということなのだろうか?前半のレイプ魔の侵入の際は、戦争のけたたましい砲弾がテレビから鳴り響く中、犯人は凶行に及ぼうとしたが、フラーは殺人をただの殺人にはせずに、暴力に更なる苛烈な暴力を掛け合わせることで強烈な問題提起を施すのだ。
ジュリーの気持ちをキーズが汲み取りながらも、5週間プログラムで何とか犬を手なづけるが、その段階になって白い犬の飼い主を自称する男が現れる。彼は一見して非常に温厚で穏やかなリベラリストに見えるし、いかにも純朴そうな少女の真ん中に挟まれて微笑む。恰幅の良い男はジュリーをチョコレートで釣りながら、ホワイト・ドッグの返還を求めるが、教会で1人の黒人男性を殺めた事の重大性を理解しているジュリーは激昂し、受け取ったチョコレートを投げつける。『裸のキッス』のラストの大衆の好奇な眼差しのように、時に人種差別主義者の歪んだ見解が、市井の人々を恐怖に陥れるということに、主人公は反旗を翻すのである。5週間プログラムの最終試験の現場、キーズの献身的な調教が身を結ぶのか?はたまた幼年期からの人種差別主義者の歪んだ調教が勝るのかは実際にスクリーンで確認して頂きたい。アメリカの欺瞞を、映画を通じて問題提起してきた職人監督フラーの人種差別への告発は、馬鹿げたことに人種差別主義団体の圧力を食らい、アメリカでは今作が陽の目を見ることがなかった。そのことに晩年のフラーは打ちのめされ、失意の中、家族を連れてフランスへと渡ることになる。