踊ること歌うことを自分の手に取り戻す
京都市内で公務員をしていた頃、ふいに降りてきたことがある。
「踊りたい。歌いたい。自分を表現したい。」
それまで、歌うことはそこそこ好きだったものの、
人前に出るのはあまり好きではなかったし、
まして踊るなんて、本当に苦手で。
東京のクラブに連れてかれたものの、眠いと帰りたくなるしまつだった。
でも、そんな私に
「踊りたい。歌いたい。自分を表現したい。」気持ちが降りてきた。
自分の中にほとばしるものを表出する手段としてのものだったのだろうなと今は思う。
そこで、昔やってみて気になっていたタップダンスとか捜してみたのだけれど、続けたいなと思える教室がなく。
友人のお能の謡イベントに参加してみたり、鴨川沿いで盆踊りをする
盆オドラーたちの盆踊りに参加してみたりしていた。
すると、大きな声を出したり踊ったりする輪って、すごくよかった。
上手でも下手でもいいのが心地よかった。
河原で踊っていると、通りがかりの人が遠慮がちに輪に入ってきて、
それを受け容れる度量がそこにはあって、それもまたよいのだった。
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今年、7月にイギリスのシューマッハカレッジを訪ねた時に、
映画「幸福な経済学」の監督のヘレナさんが言っていたこと。
しあわせを感じながら生きるためには、踊りや歌が必要。
けれど、資本主義が浸透するにつれて、踊りや歌はプロが仕事としてするものに変わってしまった。でも、本当は誰がやっても良いもので、私たちの手に取り戻さなければならないのだと。
そうだった。
「歌うのも踊るのも、わたしたちの自由」なんだ。
だから、いま、わたしは歌も歌うし、踊りも踊る。
そんな暮らしこそ、やっぱり豊かだなと思っている。
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ギターが弾けるインターンの子がいるとき、
日々、夕食後に歌を歌っていた。
オーシャンゼリゼを皆で。楽しかった。
夜の散歩にもギター弾きがついてきた。
車の通らぬ夜の道の真ん中を堂々と歩きながら歌う。
なんと幸せな夜だろうと思った。
「いつも 何か 素敵なことが あなたを待つよ シャンゼリゼ」
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さてさて、せっかく更新し続けていたのに、
ここ4日ほど、noteを更新できなかったのは、
別府に旅に出ていたから。
別府でたまたま、盆踊り大会に出逢い、
久しぶりに踊った。
見ず知らずの別府の盆踊り。
キレのいい動きのおばちゃんを目で追いながら、踊る。
最初は、物真似で一生懸命に。
でも、身体と心が追い付かない。
二度目に同じ曲がかかったとき、
すいすいと踊れている自分に気づいたとき。
ああ、気持ちがいいなと思った。
生唄で生音の盆踊り。
最高だったな~
踊りって瞑想みたいなのだ。
ただただ踊ること、
身体が自然と動いていくこと、
ただただ音の流れに沿っていくこと、
流れるように在ること。
しあわせでいることって、意外とシンプルだなって思う。
難しくしているのは、たぶん自分なんだ。