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記憶

車に長く長く揺られた。立ち寄ったコンビニは嵐の後のようにすっからかん。父はガソリンを気にして文句をたれ、私は空で読めるほどの漫画に飽き、やっとの思いでたどり着いたのは千葉の小さな寺だった。

待っていたのは「金ちゃん」という坊主頭のおじさん。本名は今も知らない。ニコニコしていて押しに弱そうだ。
金ちゃんの家は大きいのに風呂がない。わざわざ遠くにマンションを借りて入浴する必要がある。子供ながら非効率に感じたが、私はひと月あまり、風呂のため30分歩くのだった。

そこをのぞけば天国のような生活だった。
歩いてスーパーに行ける。隣にはココスがある。学校も宿題もずっとない。一度だけ、金ちゃんは私たちを連れ出した。回らないお寿司屋に飄々と入ると、品書きを指さし、ここからここまでを十貫ずつ、と職人に声をかける。ドラマのような場面だと姉は笑った。

嫌な思いをしたのは一度だけ。カメラとマイクを向けられたときだ。恐怖を感じながらも出身地を答えると、記者は目を白黒させて詰め寄り、恐る恐る尋ねた。
「もう福島には戻らないのですか」、と。
私はいわゆる、「原発避難民」だった。

学校が始まった。あの子はもう戻らないらしいと噂が回る。先生が聞くと、皆口々に避難先を答えた。友達も千葉にいたことに何故かほっとした。
しばらくして工事が始まった。校庭の土をまるまる移動するため、狭い農道に重機がなだれ込む。幹だけになった銀杏が痛々しい。外で遊べなくなり、プールは勿論禁止。マスクをしましょう、と先生。マスクと線量計測の名札をつけて登下校する。つけないとこっぴどく怒られたから、忘れられない。

支援物資のマスクやアルコールは、コロナとよく似ている。ありがたい。でも、応援の裏にある同情が怖かった。2年前人との繋がりを断たされたように、支援を受けるに値する、哀れな子でなければならないような錯覚を持った。それは今も尾を引いている。

思い返すと、金ちゃんは一度も「かわいそう」と言わなかった。まるで親戚の家に泊まりに来たみたいに私を扱い、また会うかのように見送った。面識もなく、我が物顔で居着いた私を受け入れた理由は、いくら考えてもわからない。二度と彼には会っていない。

記者が「被災者」を求めていたのは明らかだったが、私は自分を被災者だと思えない。それを決めるのはいつも他人だったからだ。
事故によって見えない境界で分断された私たちは、平然と得体の知れない汚染と日常を送る、無知で異常な子供だった。それを形容するには、かわいそうという言葉が最も適していたのかもしれない。

私の記憶は私のものだ。でも時折、他人にその価値を決められる。当時の記憶を見定められるたび、金ちゃんの隣にいた私が泣いている気がしてならない。どうすればこの気持ちが晴れるのか、その言葉以外に目を向けられるのか、私にはまだわからない。

                  text/萌木

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