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<料理>わたしのパワーフード
まだ日本にいたころ、わたしは東京の制作会社勤務だった。
勤務時間は昼過ぎから真夜中…という制作会社「あるある」な時間帯。
食事の調達は、会社の近所にあったコンビニを利用することが多かったが、歩いて10分ほどの商店街の一角に手軽な町中華があることを知って、散歩がてらそこに通うようになった。
今なら「昭和レトロ」としてその筋のマニアに喜ばれるような、いわゆる洒落っ気のまったくない外観にふさわしい店内で、「デコラ製のベコベコぎみのテーブルに薄いクッションの椅子」の組み合わせがいくつかあるだけ。
それなのに、ウェイトレスのアルバイトをしている高校生くらいの女の子たちがなぜかみんなかわいいのが不思議だった。
利用する時間帯こそ同じだったが曜日はバラバラだったのに、いつもかわいい女の子が注文取りやお給仕をしてくれた。
その中華屋の日替わり定食490円、それがわたしたちの「いつもの」だった。
そのうち女の子たちにも顔を覚えられてしまい、席につくと「定食でよろしいですか?」と訊かれるようになった。
注文すると5分ちょっとで出てくる「いつもの」は町中華の定食そのもので、おかずにごはんとラーメンスープにネギを散らした中華スープ、小皿のお漬物がついたシンプルなもの。
炒めものだったり揚げ物だったりのおかずをごはんにのせて、せっせといただく。
そうしてお皿が空になるころには「よし、もうひとがんばり!」という気持ちになれた。
そんなある日、わたしはたまたま出た電話で、通話の相手から一方的に理不尽な罵声を浴びせられた。
そんな電話は速攻で切りたかったが、会社のオーナー絡みなのでそれもできず、言い返せもしないまま、向こうが切るのを待つしかなかった。
そして、非常に気分が落ちたまま「町中華」へ行く夕方を迎えた。
受話器からもれ聞こえるくらいの罵声を隣で聞いていた支配人が、いつもどおり「ごはん、食べに行こう」と言って席を立つ。
だけどさっきの件で食欲はないし、とにかく心のショックを和らげたかったので何もしたくなかったが、しぶしぶと外に出た。
何も話すこともなく、半分うつむきながらトボトボと支配人のあとをついて店に向かい、席につく。
仕方なく、今日の定食の内容を見ようとホワイトボードに目を向けていたら、向かいの支配人がお水を持ってきてくれたお給仕の女の子に「酢豚定食、ふたつください」と言った。
驚いて思わず「ぇ?」と言ったら、支配人は「今日はよく耐えたよね!酢豚、大好きでしょ?」と返してきた。
「好きなもの食べて、元気だしな。
あれは、あんたのせいじゃないんだから。
よくわかってるから。」
小さく「うん」とだけ答えてお膳が来るのを待っていたら、そのうち、厨房からお肉やお野菜を揚げるいい香りと音がしてきた。
いつもより少し時間がかかって運ばれてきた「酢豚定食」は、パイナップルが入ってない、好みのやつだった。お野菜もたくさん入ってるし、揚げたてのお肉も大きい。
スープだっていつものラーメンスープじゃなくて、かきたまのとろみのついてるやつだ。
それもそのはず、「酢豚定食」はその店で一番、高いメニューだったから。
琥珀色の甘酢餡がからんだ酢豚をホカホカのごはんにのせて、その湯気と香りを感じたとき、気分は落ちていてもお腹は空いていたことに気がついた。
ごはんと一緒に玉ねぎを口に入れた。
「美味しい」、と思った。
そこからは、もう止まらない。
ところどころザクザクの衣が感じられる柔らかいお肉も、歯ごたえは残りつつはしっこがトロっとしているお野菜も、味付けととろみのコンビネーションがバッチリの餡も、底にコーンが入っていたかきたまスープも、ツヤツヤのごはんも、ぜんぶを無言で平らげた。
お皿が空になり、お腹がいっぱいになったとき、あれほどにどんよりとしていた気分は、どこかサッパリとしていた。
支配人にわかってもらえたから、かもしれない。
でも、いちばん大きいのは「好きなものをたらふく食べて、お腹いっぱいになったこと」のような気がする。
このことがあってから、「酢豚」はわたしのパワーフードになった。
「美味しい」と思えるものでお腹いっぱいになって気持ちがほぐれると、心に余裕ができる。
そうなると、自分を客観視できたり、周囲や問題を眺めるためにそれらから距離を取れるようになると思う。
このことは、わたしが最近ずっと考えていることに通じる。
わたしもまた、自分の作る料理で誰かにそんなふうな心の余裕や気持ちのほぐれを、提供したいから。
そう言えば、酢豚はだいぶ長いこと作ってない。
最近はありがたいことに「元気がない」ということはないけど、近々、作ってみよう。
今のわたしが作ったら、どんな味になるんだろう。
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