「コミュニティとはなにか」という問い
本日10/31をもって、1年半運営してきた「コミュニティのカレッジ〜コミュニティで生きる人の対話の場〜」がクローズしました。
いっしょにこの場をつくってくれた、greenzと運営メンバーの皆さん、ありがとうございます。
コミュニティという捉えどころのないものへの好奇心を持ち続け、より本質的な部分へ探究していきたいと願うメンバーで集い、毎月コミュニティを対話してきました。集まってくださった皆さん、ありがとうございます。
また、コミュニティの世界で活躍するゲストの皆さんにもお越しいただき、ゲストと参加者という垣根を超えて、ともにコミュニティを深めてきました。ゲストの皆さん、ありがとうございました。
とても恵まれた環境で、取り組ませていただいたこと、心より感謝しています。
コミュニティ運営の手法は横に置き、それ以上に肝となるコミュニティ観を深める場として機能してきたコミュニティのカレッジ。
それこそが、コミュニティを通じて幸せになるひと、豊かになるひとが増えていくために大切なことだと信じて、ここまで運営をしてきました。
実際に、ここで学んだことは、コミュニティマネジメントの仕事に限らず、日々過ごすなかで活きることが多かったように思います。特に、ローカルに身を置くひとりとして、地域そのものやそこで暮らす方々と向き合うにあたり、考えることが多くありました。
関わるひとたちが心地いいコミュニティのあり方とは?
いいコミュニティ体験とはなにか?
その人をエンパワーメントするコミュニティとは?
溢れてきた問いは数え切れません。
そもそもの出発点だった「コミュニティとはなにか」という問い。
人前でコミュニティの話をする際に、よくいただく質問でもあるのですが、その度に「コミュニティは関係性の集合体」という表現をしています。ただ、もっとこの奥にありそうな感覚も抱いています。
正直、何周も回ってコミュニティがなんなのかがわからなくなってきました。大事な要素はそれなりに挙げられるのですが、ではコミュニティを一言で伝えるとすると?それはとても難しい。
概念的なものだからこそ、触れれば触れるほど、混沌に落とされてしまう。だけど、このわからなさが僕の好奇心をくすぐってくれるんです。
「コミュニティがわからなくなった」
一見ネガティブに見えるこの一文。
だけど、僕にとってはこの気づきこそ、大きな贈り物だと思っています。わかった気になりかけていたからこそ、この学びは大きい。
わからないことを探究するのって、面白いじゃないですか。わからないからこそ、手さぐりできる。わからないからこそ、考えられる。わからないからこそ、没頭できる。逆に、わかっている道筋を辿ることほど、退屈なものはないとすら思います。
少し話は逸れますが、コミュニティのカレッジ最終日にメンバーの方が「コミュニティの本質に迫ろうとする人たちがいること、そのものがパワーをくれました」と話していて。
「あ、人は直接話したり触れたりして、関わることに意味を見出しがちだけど、ある種の気配だけで影響し合える存在なんだ」と、ハッとしたんですよね。
時間軸・空間軸を超えて、僕らはつながることができる。ただ、同時に距離感も考えていかないと、つながりが苦しいものになるし、気を抜くと関係性は複雑に絡まってしまう。
そんな息苦しさを感じて、ひとはコミュニティと距離を取ろうとするシーンがあると思うけど、そういう時は「気配」だけでいいんですよね。そこにああいう人たちがいる。それだけで、勇気をもらえることもある。無理に関わりを持ちすぎる必要なんてないんだと。
そんなことを考えると、ますますコミュニティのあり方がわからなくなってくる。
だからこそ思うのは、ひとりひとりがコミュニティ観を持つことが大切になるということです。
あなたにとってコミュニティとはなにか?
居心地のいいコミュニティとは?
適したコミュニティとの距離感とは?
そこには決して正解があるわけではありません。
ひとりひとりの中にしか答えはないし、それが正解かどうかなんて他者が決めることではない。
そう、自分で見つけるしかないんですよね。
社会的動物である僕らは、そうやってコミュニティの中にある、己の幸福を探し続けるしかないんだと思います。
正解が自分にしかないものを探す、その歩みはきっと孤独なもの。だからこそ、僕はコミュニティのカレッジのような空間・機会が大切になると思っています。
だから、僕は何かしらの形で、コミュニティを対話できる空間を維持し続けると思います。
僕はこれからもコミュニティを探求し続ける。
同じように考える人がいたら、ぜひ一緒にコミュニティを対話しましょう。
この場をつくって、本当によかった。
関わってくださった皆さん、見守ってくださった皆さん、ありがとうございました。