資本論(第一部)を思い切って要約してみた②

前回に引き続き、資本論第一部を極力簡潔に要約しようという試みである。

前回は、極力簡単に……といいつつも抽象的な議論が目立ち、よくわからなかったという方もいると思う。残念ながら、資本論の第一章〜第四章あたりは原理原則論なのでどうしても抽象的になってしまうのである。

それに比べれば、今回要約する第五章以降は具体的な話が多いので、比較的わかりやすいのではないかと思う。それに、私がぜひ読んでほしいのも第五章以降である。なぜならそこに我々の生きづらさを解明するヒントが多数隠されているからだ。

今回は論点をさらに明確にするため、マルクスの論を逸脱しない範囲で論の順序を入れ替えたり、マルクスの草稿など別の文書を踏まえたりしてわかりやすい記述に努めようと思う。

そんなわけで今回もいってみよう!

人間の労働の特徴

前回、労働がつくる価値について議論したが、そもそも労働とは何か。それは人間が自然にはたらきかけ、必要なものを獲得したり作り出したりするプロセスのことである。

ここで重要なのは、巣作りのような動物の行動と人間の労働とは何が違うのかということだ。それは、人間は労働をするにあたって多かれ少なかれプランを立ててからやる、つまり頭を使うということであり、このことが人間の労働の多様さと複雑さを生み出している。

疎外された労働

以上の点、すなわち頭を使ってプランを立てるという点が労働における人間らしさなのだが、ここで前回の労働力にまつわる議論を思い出してほしい。

資本主義社会において大半の労働者は資本家に労働力を売って日銭を稼ぐが、これは「労働力を自由に使ってよい権利を売る」ことを意味していた。すなわちこの時点で、労働のプランを立てる権限は原則として資本家の側に移ってしまうのである(労働者に主体的に意思決定させる場合も、あくまで資本家の持っている権利を一部委任しているに過ぎない)。

このことは労働における人間らしさの喪失を意味している。プランを立てる権限がなければ、下手すればその労働は動物の行動と変わりないのである。このように人間から人間らしさが剥奪されていることを疎外という。資本主義社会において労働者は人間性を欠いた労働、疎外された労働(疎外労働)を強いられているのである。

(なおマルクスは資本論の中で「疎外」という言葉を必ずしも使っていないが、いわゆる『経済学・哲学草稿』をはじめとした初期著作では疎外が主要テーマとなっている。資本論もその論調から判断するに基本的には疎外論を踏襲していると判断できるので、ここでは疎外という言葉でまとめた。ただし資本論と初期著作にどの程度の連続性があるかは論者によって意見が分かれる。)

労働時間の延長

このように、労働力を売った労働者は自身の労働をプランニングする権利を明け渡してしまっているわけだが、その権利を獲得した資本家がまずやることは労働時間の延長である。

前回も述べたように、労働力の価値よりもそれが労働して生み出す価値の方が高い場合、その差が剰余価値として資本家の懐に入る(搾取)。よって資本家としてはできるだけ獲得した労働力を長時間使おうとするのである。

(なお今日では長時間労働をさせると時間外手当が発生してしまうが、これも労使契約に含まれているという点で、労働力の売買と本質的には違わない。すなわち時間外手当も労働の対価ではなく、時間外手当と労働の生んだ価値との間には剰余価値が発生しうるのである。)

長時間労働が労働者にとって害であることはいうまでもなく、雇った労働者が弱っていくことは最終的には資本家の首をもしめる。しかし資本家は基本的には目の前の剰余価値に注意が集中しており、長期的な結末はさほど考慮しないものである。よって長時間労働の規制は、労働者の側が労働組合を作ったり法規制を推進したりすることで実現しなければならない。

協業・分業・機械化の害

長時間労働が規制されると、資本家は単に労働時間を延長して剰余価値を取得するのをやめ、俗に言えば生産性を上げることで剰余価値を取得しようとするようになる。

なお社会全体の生産性が上がると、一般に商品の価値は低くなる。それすなわち労働者が生活に必要なお金も減るということであり、これは平均賃金の引き下げ(つまり労働力の価格低下)の口実となる。生産性の向上はこういった面でも剰余価値の生産に貢献する。

生産性を上げる場合、まず人員を増やして協力させる(今日的にいえばチームをつくる)ことが思いつく。これを協業という。協力するというと聞こえはいいのだが、人が複数いるということは必然的にまとめ役が必要になる。それは資本家だったり、資本家に権限を委譲された管理職だったりする。それすなわち、協業が発生すると労働者が自分の労働をプランニングする余地がますます減るということであり、疎外は一層進展する。

だが単なる協業はまだよくて、問題は作業が細かく分けられた時である。一連の作業を分割し別々の労働者に割り当てることを分業という。例えば、最終的にひとつの製品を作るにしても、パーツA担当者はAしか作らない、パーツB担当者はBしか作らない……といったぐあいである(今日でいうと、システム業者で営業とプログラミングに工程が分割されているのも分業といえるかもしれない)。これではついに労働の全体性すら失われるわけで、疎外がますます進むことは明らかである。

さらに分業を基礎として機械化が実現してしまうと、労働はほとんど機械に乗っ取られてしまう。労働者は機械に従属する形でしか労働が許されなくなる。これを疎外といわず何と言おうか。結局のところ、機械化をはじめとした技術革新というのは資本家の剰余価値取得のためのものであって、労働者にとってはむしろ害になりうるのである。(近年流行りのAIも、せっかくの技術なのに、労働者にとってはむしろ職を奪う天敵としてあらわれる。)

ところで労働者は、確かに労働力を売った時点で労働をプランする権利は手放しているわけだが、それだけならまだ形式的に権限が資本家に移っているにすぎない。例えば鍛治職人の場合、指揮命令権が資本家に移ったとしても、実質的には鍛治を進める主体は職人の側にあるといってよい。しかし分業や機械化はそれすらも破壊してしまい、いまや実質的にも労働のプラン権限は取りまとめを行う資本家の側に移ってしまう。資本家が労働者を飲み込んで支配してしまうことを包摂というが、このように生産性の向上を目指すなかで包摂のあり方は形式的包摂から実質的包摂に移行してしまうのである。

まとめ

上記まででおよそ第十五章までの内容が終わった。内容的にキリがいいので続きは次回とし、次回での完結を目指そうと思う。とりあえず今回のまとめは以下である。

・人間の労働の特徴は自分の労働を頭でプランニングできるところにあって、そこが動物と違う人間らしさだよ。

・でも資本家に労働力を売っちゃうとプランニングの権限が資本家に移るから労働者は人間らしさを喪失するよ。

・資本家はプランニングの権限を盾に長時間労働を求めてくるけど、それができなくなったら協業・分業・機械化で生産性を高めようとしてくるよ。すると実質的にも分業や機械を指揮する資本家の側にプランの権限が完全に移ってしまうよ。

ではまた次回!

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