こもれびより ~commoré-biyori~ vol.6「日本人と英語」(2019/4/27) レポート
こんにちは。こもれびスタッフの根本です。
4月27日(土)、こもれびより第6回となる「日本人と英語」を開催しました。これまで、「言葉の壁はなくなるか?」(第1回)や「言葉の形」(第5回)など、広い意味での「言葉」に焦点を当ててきましたが、今回は「英語」という、的は絞りつつも話はどこまでも広がるような、そんなテーマを選びました。
12名の方にお越しいただいた今回は、これまでの「こもれびより」とは少し趣旨を変え、講師による「ミニ講義」を挟まず、皆さんで「日本人と英語」についてお話しをすることがメイン。身近だけれども奥が深いこのテーマについて、話は大いに盛り上がりました。ここでは、当日の様子をお伝えします。
まずは、「英語」に対してどんな思いを抱いているかを交えつつの自己紹介タイムからスタート。12名の中には、今まさに学校で英語の授業を受けている中高生から、自分で学びを深めている大学生から成人の方まで、実に様々な方がいらっしゃることが分かりました。
このタイミングで、モロッコに旅立っているスタッフの塚本も急遽Skypeで参加。フィリピンで英語を使いながら過ごした幼少期のことなどを語っていました(それにしても、便利な世の中になったものです)。
さて、自己紹介が終わると話はいよいよ本題へ。
まず話題になったのは、「教育現場における英語」について。
これは特に、学校の授業を受けている年代からの生の声が聞けたところですが、少なくとも参加者の皆さんから観測できる範囲では、「英語そのものに愛着を抱き、熱意を持って教壇に立っている」もしくは「発音が上手であったり、文法の説明が上手であったりする」という先生が学校にいらっしゃらず、歯がゆい思いをしている方もいるようです。学習の初期段階では「誰に教わるか」ということはその後の運命を大きく左右する…と言っても過言ではないので、大きな関心事であることは間違いありません。難しい問題です。
この件について印象的だったのは、話題に挙がったとある学校の(発音や文法事項の説明が必ずしも得意ではない)先生について、その先生に習っているという生徒さんに「じゃぁ、その先生のことって嫌いなの?」と聞いてみたところ、「いや、むしろ授業以外のときなどにこちらの話を聞いてくれる、という良い印象を持っている」という答えが返ってきたこと。学校の先生というのはとかく「指導能力」だけで判断されてしまいがちですし、その判断が必要である部分はあると思うのですが、とは言うものの先生も人間。良いところもあれば良くないところもあるわけで、この先生の場合は「話を聞いてくれる」という良い点があるわけです。何か、そこを手がかりにして、「先生の授業、こういったところが改善されると良いと思うのだけれど…」と対話を試みる、という方法もあるのかもしれない、と思った次第です。
また、この日はご自身で英語を学び、指導経験も豊富なあやきさんが参加してくださっていたこともあり、あやきさんから見た「日本人と英語」についてもお話しいただきました。あやきさん曰く、指導の前に「なぜ」「なんのために」英語を勉強しているのか、と聞くと、大半の人が答えに詰まってしまうということ。
なるほど、そう言われてみると英語という言語は様々な不幸を背負っているように思えてきます。「経済的に力を持った国の言語が英語だった」「そのため、学校における外国語科目として組み込まれたのが英語だった」という理由で、誰もが避けて通れないのが英語。避けて通れないが故に、「なぜその言語を学ぶのか」ということになかなか思いが至りません。もっと言えば、「教科としての英語」という性質から、「点数が取れる人/取れない人」に分けられてしまい、「純粋に学習を楽しむ対象としての英語」というようにはあまり考えられなくなってしまっているのかもしれません。
あやきさんの発言を受けて塾長の志村が語ったのは、「二重の選択」ということの難しさ。後日彼がTwitterに投稿したツイートを引用するならば、「たとえばフランス語を始め、続ける理由はただ『なんとなく』とか『好きだから』とかで事足りる。英語 “以外” の語学はある種の逃避だから。でも英語というそもそも『やらされている』、『皆がやっている』ことを突き詰め、その理由を自分なりに言葉にするにはかなり体力がいるんだなぁと思った。」とのことで、「皆がやっている」だけではない、さらに自分なりの理由を持たなければ、本当の「学び」にはなかなかつながらない、ということでしょうか。
私自身のことを振り返ってみるならば、学校教育の中で勉強した英語については、たまたまうまく歯車が噛み合ったのか比較的得意な科目で、大学入試まで大きな「武器」となったことは間違いありません。ただその後も英語を継続的に勉強してきたかといえば答えは否で、例えばTOEICを受けようと思ったこともありましたが、そのときにしていた仕事の性格上、「TOEICで高得点をとることが何かしらのインセンティブにつながる」ということがなかったことせいか(今から思えば完全な言い訳ですね)モチベーションも上がらず、本腰を入れての勉強にはつながりませんでした。先ほどの言葉を借りれば、「自分なりの理由」が見つけられなかったということです。
そのような話をしているうちに予定時間の半分ほどが経過。それ以降はより自由に、それぞれの人がそれぞれに話したい話をする、という時間になりました。
当然といっては当然なのですが、やがて話は「自動翻訳機」のことへ。この話題、こもれびより第1回の「言葉の壁はなくなるか?」でも志村が少しお話ししたことです。自動翻訳機の技術の発達は目ざましく、近い将来、かなりの精度で翻訳ができるようにはなるでしょう。ただだからといって、外国語学習が不要になる、という意見については賛否両論があるところです。ここ「語学塾こもれび」に集う人たちは、「言葉」に対して並々ならぬ愛情を持っている方々ですから、まずもっての感情として「人間の言葉が自動翻訳機に完全に取って代わられることはない」という思いがあることでしょう。
自動翻訳機について皆さんで話す中で、炊飯器のことが出てきました。かつては竈で炊いていたお米は、今や多くの人が炊飯器を使って炊くようになりました。でも皆さん、認識としては「本当は竈と土鍋で炊いたご飯の方が美味しい」ということがなんとなく分かっている中で、多少の美味しさを犠牲にしつつも「ボタン一つでご飯が炊ける」ことの便利さを享受しているわけです(そのため、各メーカーも「いかに竈と土鍋による炊飯の工程を再現するか」に腐心しているのでしょう)。この例を引くならば、「皆、自分の言葉で直接話した方が良いと分かってはいるけれど、便利さを優先して自動翻訳機を使う」ということになりかねない、ということになります。はてさて、果たしてそれはあるべき姿なのでしょうか…。考えて見る余地はありそうです。
その他、「アメリカ英語とイギリス英語について」、「これまでどんな言語を学んできたか」という話を飛び出し、中にはコルシカ語の学習経験がおありの方もいらっしゃり、それを聞いた「マイナー言語好き」な他の参加者が大いに喜ぶ、といったシーンもありつつ、大盛況のうちにイベントを終えることができました。改めて、ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。
次回、第7回の開催は6月22日(土)14時~。テーマは「『国語』は何語?」とする予定です。皆さまに足をお運びいただけますと嬉しく思います。
※今回も、生徒さんから美味しい手作りお菓子の差し入れをいただきました。あまりの美味しさに初めに写真を撮るのを忘れてしまったのですが、左がチョコパイ、右が柏餅です。ありがとうございました。