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【シベリア散歩(5)】中国人のロシア移住と「ミリオンカ」


ウラジオストクのある中国人家族の写真。
写真中央の装飾品から見て、ある程度裕福な中流以上の家庭だったと思われる。右側の男性の厳かな表情、左側の女性の穏やかな表情、写真を撮るのが初めてのようなぎこちない子供の表情が印象的だ。

1. はじめに


こんにちは。前回は「ロシア極東におけるユダヤ人」について紹介しました!最近のイスラエル問題に関連しているせいか、多くの方が関心を示してくださいました。 ありがとうございました!

特に文学・音楽に関心をもっている「麻依弥」さんから、すごいコメントをいただきありがとうございます!

貴重なコメント、力になりました!ありがとうございます!
下記、ぜひ麻依弥さんのnoteへ!

さて、今日はウラジオストクに住んでいた中国人について簡単に紹介したいと思います。普段日本に暮らしていても多く見かける外国人であり、日本にも帰化者が多く、国籍的には区別がつかない方の一つが中国人です。2022年末、日本に中長期に滞在している中国人は76万人ほどいるそうです。

彼らは世界のあちこちに移住し、チャイナタウンを作りました。 日本には横浜のチャイナタウンが代表的ですね!

横浜のチャイナタウン
(by Wikipedia)

しかし、特に19世紀後半から20世紀初頭の中国人はロシアへの移住が多かったのですが、ご存知でしたでしょうか?彼らはどのような理由で、そしてどのような方法で移住したのでしょうか? 彼らの歴史的な謎を探ってみましょう。

参考資料としては、『極東露領に於ける黄色人種問題』(1929)ほか、様々な資料に基づいています!この資料は無料でダウンロードできるので、興味がある方はここをクリック!(Google資料の中にコメントいただけるとうれしいです!)

『極東露領に於ける黄色人種問題』(1929)はロシアの『ロシア沿黒龍州の中国人・韓国人・日本人(Китайцы, корейцы и японцы в Приамурье)』という資料を南満州鉄道が翻訳した資料です!20世紀初頭のロシア極東地域の「黄人種」の実態を調査した最も優れた資料の一つと評価されています。

2. 山東省中国人のロシア移住


璦琿(あいぐん)の位置(四角)
山東省の位置(丸)

1860年、ロシアは璦琿(あいぐん)条約によって清国からロシア極東の沿海州を割譲されました。 突然??なぜなら清国が「アヘン戦争」でイギリスに敗北した時、ロシアが仲裁をしてくれて沿海州の割譲を要求したからです。 領土獲得に成功したロシアの立場としてはとても満足な結果でした。

1895年に撮影された山東省煙台の港。
煙台は当時に芝罘(チーフー)と呼ばれました。

ロシアは新植民地である極東沿海州を開発したかったのですが、人口が足りませんでした。1875年まで極東ロシアに来た人は3500人程度に過ぎませんでした。 そのため、道路、兵舎、官公庁の建設は事実上不可能でした。 結局、人手不足のため、1890年代半ばから山東省から中国人労働者(苦力、クーリーとも呼ばれます。これからは簡単に苦力と呼びます)をロシアに呼び寄せました。

彼らはロシアに移住し劣悪な待遇を受け、様々なトラブルに見舞われました。 中国人は郷土愛が強く春と秋の2シーズンの労働シーズンが終わると、通常は故郷に帰りました。彼らはなぜロシア極東に移住したのでしょうか?

ウラジオストクの中国商人

答えは山東省が持つ当時最高レベルの人口密度に加え、各種自然災害の発生、そしてそれに伴う経済的困窮が原因でした。その結果、アメリカ、アジアのイギリス植民地、ポルトガル植民地、ロシアの新植民地沿海地方に行き始めたのです。当時の資料によると山東省中国人の平均給料は現在で言えば約5万円程度に過ぎませんでしたが、ロシア極東に来ると15万円程度を稼げたそうです。彼らにとっては、なんと3倍も稼げるチャンスだったのです。『極東露領に於ける黄色人種問題』によれば、「山東省では黒竜江省、西伯里、北満州に出家者を出さない家庭は絶対にないと断言できる」と記録しています。

中国人のロシア移住の過程で「人材派遣」というかなり儲かるビジネスが生まれました。中国人労働者がロシアに行く過程には斡旋業者と宿屋が介入していました。中国人労働者が斡旋業者に移住を依頼すると、斡旋業者は宿屋に労働者を引き渡し、宿屋は出発まで彼らを担当しました。このとき、宿屋は中国人労働者の宿泊費や食費、乗船券、査証発行費などを実費の2~3倍を計算して受け取っていました。

そこで私たちは知りたくなりますよね、彼らの「年収」を。当時、ウラジオストクの一般事務職の年収がおよそ360万円程度だったのに対し、宿屋は1年で約4000~5000万円を稼いでいたそうです。しかも中国人労働者は労働シーズンの終わりに宿屋に弁済をしなければならないのですが、その保証は請負業者が立つので宿屋は絶対につぶれない「ローリスク・ハイリターン」のビジネスをしていたのです。すごいですね。

ウラジオストクの中国人
ウラジオストクの北京スカヤ(中国人街)
https://pastvu.com/p/339387

これらの中国人労働者は3、4月に煙台から出発し、11、12月に平均150万円から300万円を稼いで帰ってくるのが一般的だったそうです。平均年齢は18歳くらいから30歳くらいまでで、高齢者は極めて少なかったそうです。興味深いことに、中国人女性がお金を稼ぐために来ることも多かったそうです。

ウラジオストクの中国人占い師。
客たちは移民である自分の運命についてどう占われたのか。

3. ウラジオストクの中国町、「ミリオンカ」の過去と現在


ウラジオストクの中国町である「ミリオンカ」
中国人家族一行がミリオンカを歩いている。
母親と思われる中国人女性の警戒の眼差し、
好奇心旺盛な子供の眼差しがカメラレンズに向けられている。

「ミリオンカ」の感覚をつかむために、1分程度の短いミニ動画を見てみましょう。

C : ミリオンカ(中国町) 
J1 : 日本町        
J2 : 日本売春宿      
K1 : 開拓里(韓国町)   
K2 : 新韓村(新韓国町)  
ウラジオストクの日本町や韓国町は以下の記事のをご参考!

1910年、ウラジオストクのチャイナタウンであるミリオンカには5万人以上の中国人が住んでいました。ミリオンカ自体で生活と余暇に必要なすべてのものを利用できたと言われています。ミリオンカには専門的なビジネスと政治的性格を持つ中国人協会の本部がありました。

ただし、ミリオンカはロシア政府によって麻薬やギャンブルなどの犯罪の巣窟としても認識されていました。

ミリオンカのアヘン窟(1933)
ミリオンカのモルヒネ屋(1933)
写真の中の人物は腕に注射を打っている。
ミリオンカで将棋を差す中国人たち(1933)

1933年のソ連政府のある報告書によると、ミリオンカはロシア警察がコントロールできない空間でした。狭い区域の建物に300世帯以上が入り、その人口は3000人を超えていたといいます。ロシア政府は彼らが労働に従事していない人々であり、ミリオンカで様々な犯罪が盛んであったため、大いに緊張しました。 彼らをコントロールしようとしても、ロシア地方政府の行政力を超えたネットワークがあったため、簡単に解体されませんでした。

しかし、歴史に「永遠のもの」というものはなかなか見つかりません。状況が変われば、強力な力も崩壊するものです。1930年代半ば、ソ連政府はミリオンカを敵国日本の情報収集の中心地とみなし、強制撤去を決定しました。 途中、中国人の反発で延期されましたが、最終的に1936~1938年にかけてミリオンカに住むすべての中国人がウラジオストク郊外または中国に移住し、ミリオンカの歴史は幕を閉じました。

ミリオンカの過去と現在
外壁がかなり傷んでおり、
特に管理されているようには見えません。
この程度ならほぼ廃墟に近いと言っても過言ではない。

しかし、ミリオンカが空き家や廃墟として残って、歴史の裏側に消えてしまったわけではありません。 最近では、ここを一つの歴史芸術的な空間にする試みや、素敵なレストランができたりと「ミリオンカ」の現在的な可能性を新たに見出しています。


ロシア語で「ミリオンカの王」と書かれています。
この作品は「33+1」というプロジェクトの一環として作られたアート作品です。ミリオンカは都市内の別の都市であり、ロシアの警察はミリオンカの王と「交渉」しなければなりませんでした。 移民のネットワークは、時には行政権力を超えることもあります。

ミリオンカの一部だった空間のひとつは今ではとてもエキゾチックな空間になっています。私がウラジオストクに留学した当時、最も印象的だったTOP3のレストランでした。

純粋に私の主観的な感想で、宣伝料を貰ったわけではありませんが…(笑)、ウラジオストクに行くなら、必ず一度は行くべき場所ではないかと思います。
東洋と西洋の絶妙なコラボレーションの雰囲気がすごいです。

現在、ミリオンカーレストランの内部。
中央の中国人と韓国人の写真が変わり続けているのが
とても印象的で古風です。
ミリオンカー独自のビールも販売しているのが珍しいです。
雰囲気も料理もとても良かったのに、あの当時に一度でも戻れたらいいですね。
ここへもう一度行ってみるのが私のバケットリストの一つです。
中国町の歴史的空間の上に東洋と西洋のコラボレーションという意味で生まれ変わったミリオンカレストランは、決して一般的な旅行先ではありません。


このように、ミラオンカを記憶し、スタイリッシュに復活させようとする人々が一方では存在しています。そのような努力が続けば、ミラオンカの歴史は生命力を失わず、新たな未来を切り開くことができるのではないでしょうか。

4. 最後に


ミリオンカの人たち(1923)

ここまで、中国人のロシア移住の簡単な過去の話を紹介しました。 彼らが中国のどこから、どのような理由で来たのか、そしてロシアに来てどのような場所で過ごしたのか、そして断絶を越えて現在はどのような空間へと変貌しているのかを見てきました。

私はウラジオストクにいたとき、中国人の友達と良い思い出がたくさんありました。一緒にロシアで中国料理を食べたり、遊んだり、楽しい思い出を沢山作りました。 同じクラスのロシア人の先生も中国語専攻で、中国人の友達を連れてこのミリオンカに来て食事もし、歴史的な背景を説明してくれたこともありました。そして、私もウラジオストクで一緒に時間を過ごした中国人の友達と今現在も連絡を取り合いながら過ごしています。私にとって良い思い出の場所であるこの場所にもう一度行けることを願っています。今いる日本でも、中国人と一緒に楽しい時間を過ごすことができたらいいなと思います。(*'▽')


(*'▽')
デジタル歴史家
ソンさん


【参考】



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