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空の輝きの神格ゼウス

中学生だった時、西の空が夕日に染め上げられていくのを見てボーっと立ち尽くしたことがある。夜と昼の境目は紫色に光って、星がちらほらと光っている。センチメンタルな時期だったから立ち止まった、というわけでもないだろう。今でも、そういう空の輝きを見ると、しばらくの間、我を忘れてしまう。

この心の働きは筆者のものだけということではないだろう。読者にもわかってもらえるだろうし、あるいは、古代ギリシア人も理解していた。というのも、「空の輝き」は神格化してゼウスとなったらしいから。

比較言語学や比較神話学の教えるように、ゼウスは本来天空とその輝きを表徴する神格であって、古代インド語(古典インド語といったほうがいい)である梵語の、Dyaus ラテンの lu-piter (piter < pater 「父」はおまけ) と同語である。ギリシアでも Zeus (ゼウスあるいはズデウス)であるが、方言や詩語、俗語などには Zes, Zen, Zan, Den, Dan, Ten, Tan などの異形も見える。

呉茂一『ギリシア神話』

空を支配するものは天上天下、世界のあらゆることを統べるものとして自然と認められるようになったらしい。

ことに古代ギリシア社会において重要な意義をもち、また当然それ故に、古代社会の反映である上代ギリシア文学にも大きな役割を演じているのは、「主客の義を守るゼウス」(ゼウス・クセニオス)と、懇願者、救いを求める者を庇護するゼウス(ゼウス・ヒケシオス)であった。

呉茂一『ギリシア神話』

「主客の義を守る」というのが少々わかりづらいかもしれない。呉は『イーリアス』を引用してこれを説明していた。

たとえば『イーリアス』の第六書(二一五以下)で、ギリシア方の大将ディオメーデースは敵軍の将グラウコスに出逢い、その氏素性を訊ねて、彼の祖先に当たる英雄ベレロポンテースが、その昔自分の祖父に当たるオイネウスの館にしばらく逗留していたことを聞くと、すなわち戟を収め手をさし延べ、互いに戦うのをやめたばかりか、贈物を交換して別れるのである。そして末先々とも、グラウコスがギリシアへ来た折には自分が宿主となり、また自分がリュキアに赴いたらばグラウコスの館で饗応をうけようと約束する。そこには個人、あるいは家と家との交誼のほうが、国家間民族間の闘いよりも、重しとされていたのである。

呉茂一『ギリシア神話』

個人のもてなし-もてなされる関係、すなわち主客の義が、戦争よりも上に置かれた。争っていても交友関係は続けようと、その主客の義は守られたのだ。

あるいはそうでなければ安寧な毎日を送れないのかもしれない。古代のことだから交通も法律も整ってはいなかっただろう。そんな時世に人のくらしを秩序づけたのは、ある種の「線」だったのではないか。

戦争から「線」を引き、主客の義を守る。あるいは、神助を求める者には、いくらややこしい理由があったとしても、危害は加えない。「線」を踏み越えないことが、人々の暮らしを穏やかにしたのではないだろうか。

空を輝かせ、さらに、地上においては「線」を守らせる力をもった大神ゼウスが、古代ギリシアには君臨していたのだ。

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