『かわいいの本音と本質』【お洋服】
突然ですが。
あなたが「可愛くなりたい」と思う理由って、なんですか?
私自身の話で恐縮ですが、『かわいくなりたい』という欲求の源は至極単純、かつ非常に物理的なもので「わたしの可愛いと思う洋服をかわいく着たい」という理由がとても大きい。
正直これは30歳を過ぎた今も未だに抜けない私の性質で、どうしても自分の体形や雰囲気を理想とするその服のスタイルに(サイズはもちろんできる事なら顔までも)寄せたくなってしまう。
“わたしが在って服がある”のでは無く“服が在ってわたしがある”
そんな状態なのです。
いざこうして文章にして書き起こすと、この感覚が褒められたものではないというのは自分でも分かる。ボディポジティブという風潮にある近年にこんなことを言っていたら、方々からお叱りを受けそうですらあるんですが、それでも、例えば全く同じ洋服だけれどサイズが異なるものを比べた時に、自分のなかで「この服はこのサイズがかわいい(このサイズだとかわいくない)」とかいうふうに思ってしまうと、同じものであるはずのその服も、大きさが異なるというだけで、私の中では全くの別物になってしまう。
そんな理由と謎の理屈に突き動かされ、私は「理想のかわいい洋服」を 「かわいく」着たくて、『理想のかわいい自分』になろうと努力を始めるわけなんですが。
ダイエットだったりメイクだったり
特別な事をする訳でもなくて、何にも変わったものではないありきたりなものなのだけれど、
本人はいたって必死。しかしそこで、ハッとして、不意に思ってしまうのが、
「これじゃ『可愛くなりたい』という私の欲求は、私自身の為じゃなくて、洋服の為になっちゃうんじゃないだろうか?」という事。
洋服が好きな私が 好きな洋服の為にかわいくなりたいのであれば、やはりそれは私自身の為である。とも言える気もしなくはないが…
えー。。。。ー。えーっと。。
(考え出すとぐるぐるしてしまってよく分からなくなってしまいます。)
まぁ、この問いに関して不都合なほどの違和感を感じているわけでも無いので、特に急いで答えが欲しいわけではないんですが。
ないはずなんですが…
年々己の体形がふくよかな丸みを帯びてきていることに、ある日突然気が付いたんです。
本当に今更です。(その瞬間、私は小さく震えました)言わずもがな、周囲の人間はとうの昔に知っていたこと。なぜ今まで気づかなかった!というかよくここまで見て見ぬ振りが出来ましたね?と自分を呪いそうになりました。
そうして立ち止まって、
いや、立ち竦んでしまいます。
「これから先『わたしのかわいいお洋服』たちと、私はどう付き合っていくべきなのだろう?」
可愛いかわいいワンピース。お気に入りでずっと履いてる相棒デニムにカーヴィなラインに一目惚れして買ったタイトスカート。キュートなフレンチスリーブのトップス。
「ああ、アレもこれも。このままじゃ、もうすぐ着れなく(入らなくなる)なってしまう…!」
そう考えたら寂しくて仕方がない。
だから今はまだもう少し、わたしなりに孤独でストイックなまま(つまりなんとか身体のラインを維持する努力をしながら)彼女たちとお付き合いを続けていたい。
そうは思いつつも、例えばこの前の映画で見かけたドヌーヴ様のような“黄金色の豊潤さ”という言葉を思わずあてたくなるような、センシュアルを身に着けた老婦人になるのもとても素晴らしいことに感じていたりもする。
右往左往だ。
そんな折に、昨日のニュースで日本を代表するデザイナーである森英恵さんの訃報を聞きました。
昨年はKENZOの高田賢三さん、つい先日はイッセイミヤケの三宅一生さんと続き、日本のファッションで世界へ挑んだ素晴らしいデザイナーたちの悲しいニュースが相次いでいます。
彼ら、彼女らが築き上げたものはあまりに偉大で、そのバイタリティと才能と、そして美しい精神は計り知れないほど尊い。
しかし。
時代の流れ、時の流れは止めることは出来ない。
様々の事象は沸き起こり、過ぎ去っていく。
既成概念に囚われないということは、彼女たちが教え、示してくれた偉大な道のひとつです。
今の時代は、ボディコンシャスな服よりもコンフォタブルな服が主流となり好まれていて、その根底にあるのが【自分で自分を愛して大切にしよう】という大切なメッセージであり、現代の快適性を追求したファッションムーヴメントは、そのメッセージがきちんと多くの人へ届いていることの一つの表れなのだとも感じています。
だからこそ私のように、服に合わせて自分を変えたいと思う人間は前時代的なのだと揶揄されがちであることは十分に理解もしています。
もちろん私自身、痩せすぎや、アイデンティティの喪失にも繋がりかねないこの考え方を否定的にとらえる若者が多くなっていること自体は喜ばしく思う部分もあるのは事実です。
だけれど、森英恵さんのニュースの中で黒柳徹子さんの言葉を目にした瞬間、私の『洋服に自分を合わせたい』という考え方も、それもまた、正しく美しいのだと、心強く気づかされました。
そもそも偉大なデザイナーである彼女の作る服は、美しく、着心地の良いものばかり。
美しさと快適さは共存できるものなのだという事を、優れた女性デザイナーはきちんと証明してくれた。
さて、今の私たちは?
未来に進んだはずの2022年の現在は、きちんとその共存を体現していけているだろうか?
彼女の悲しいニュースを見て、
黒柳徹子さんの言葉を読んで、
私は少し考えました。
美しい洋服を目にしたときの興奮、高揚感。
そこでは、難しい思考も判断など必要ない。
美しい洋服はそれ自体が芸術であり、それを纏うにはその為の資格が必要な事もある。
美しいものを、
ただ美しいと受け入れる姿勢を、
私は大事にしたい。
そう感じる感性を、
自分自身を、
愛おしく思いたい。
偉大なデザイナーに。
R.I.P。
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