
『海がきこえる』を読み(視聴し)なおす:その6 杜崎 拓は武藤 里伽子をいつ好きになったのか? パート1
タグ: #読書の秋2021 ,#海がきこえる,#海がきこえるⅡアイがあるから,#氷室冴子,#スタジオジブリ,#アニメ,#小説,#考察,#ネタバレ
前回、『海がきこえる』の「小説版」と「アニメ版」の舞台となった「高知」と「東京」を「マイマップ」を通して確認してきました。
今回、いよいよ考察に入ります。
最初の考察は、
「杜崎 拓は武藤 里伽子をいつ好きになったのか?」です。
それでは、順を追ってみていきましょう。
「小説版」で拓は里伽子をいつ好きになったのか?ー答えは本文の中にー
結論から言えば、「小説版」については、本文の中に答えが掲載されています。「小説版」は主人公である「杜崎 拓(以下、拓と略す)」の一人称視点で終始語られています。そのため、読者は、拓の見ているものや考えていることが手に取るように理解できるからです。
「小説版」で、拓が「武藤 里伽子(以下、里伽子と略す)」を好きだったことに気づくのは、「海きこ」27ページ。高知の高校を卒業して東京に来た拓がアパートで一人になり、ふと見た里伽子の水着写真を見て、里伽子との思い出を振り返るシーンです。
また、「小説版」で拓が里伽子に好きだと告白するのは、「海きこ」235ページ。同じ大学の先輩である「津村 知沙(以下、知沙と略す)」の友人のパーティで里伽子と偶然(作劇上ある意味で必然の)再会を果たした拓が、知沙に教わった里伽子の住所と電話番号を頼りに、里伽子のアパートを訪ねたシーンです。
(風邪気味で具合の悪い里伽子に対して、拓が里伽子に好きだと告白する、何とも間の悪いシーンですが)
以上、「小説版」について見てきました。それでは「アニメ版」についてはどうなのでしょうか?
「アニメ版」で拓は里伽子をいつ好きになったのか?ーアニメ版の構成の変更が物語に与えた影響ー
「アニメ版」において、拓が里伽子を好きだったと口にするのは、クライマックスシーンです。帰省先の高知から、大学のある東京に戻ってきた拓が、JR中央線吉祥寺駅のホームで里伽子と(ようやく)再会を果たしたのち、心の中でこうつぶやきます。
拓ナレーション「ああ やっぱりぼくは好きなんや…そう感じていた」
「アニメ版」はそこで終わってしまい、拓が里伽子に好きだと告白するシーンすらありません。
(個人的には、余韻があって、ああいう終わり方も嫌いでないのですが。)
なぜ、このような「違い」が発生するのでしょうか。理由は、3つ考えられます。
1.「アニメ版」は72分という短い時間の中に物語をまとめる必要があった。そのため、ストーリーと構成(物語の中におけるシーンの見せ方や順番)を変更せざるを得なくなったから。
(「小説版」では同窓会に出席した里伽子が拓と会話するシーンがあるが、「アニメ版」では同窓会に出席せず、拓とも再会していない)
2.「1」の理由と関連して、「海きこ」における拓の大学生活を丸々カットせざるを得なかった。そのため、拓の先輩である津村 知沙や「田坂 浩一(以下、田坂と略す)」が登場せず、東京で拓と里伽子が再会するきっかけやシーンがなくなってしまったから。
(見方を変えれば「アニメ版」は、「もし拓が東京で里伽子と再会を果たすことのないまま、はじめての夏休みと高知への帰省する日を迎えたら?」を描いたパラレルストーリーであるともいえます。)
3.「小説版」の一人称視点によって読者に伝わっていた拓の気持ちや考えが、「アニメ版」のカメラによる第三者視点に変更されたことにより、拓の気持ちや考えといったディテール部分が著しく減少したため、視聴者に伝わりにくくなったから。
拓の一人称視点で進む「小説版」に比べて、「アニメ版」は、アニメという媒体の性質上、「一人称視点」で描き続けるにはどうしても無理がでてきます。そのため、どうしてもカメラという「第三者の視点」で物語を描かざるを得ません。
「アニメ版」でカメラによる第三者視点で描くことで、拓や里伽子たちの細かな表情や仕草の変化や、美しい高知の風景、モノが放つ音が映像となって視聴者に伝わるようになりました。その一方で、「小説版」の魅力でもあった拓の細やかな感情の変化や考え方といった多くの情報が失われてしまったのです。(それでも、「アニメ版」は、他のアニメより明らかに、主人公のナレーションやモノローグが多いと思いますが。)
スタジオジブリによるアニメ化であり、拓や里伽子たちの表情や仕草の変化も、細かく丁寧に作られています。
ここまで見てきたように、『海がきこえる』の映像化(アニメ化)は、「原作」の文字と挿絵で描かれてきたものを具体化させて視聴者(読者)に届けることに成功しました。
しかし、一方で映像化(アニメ化))は、主人公である拓の感情の情報量が減少させ、「アニメ版」における拓の里伽子への告白シーンや高知に帰省した拓が里伽子と再会する機会の喪失へとつながりました。
そして、この「情報量の減少」が視聴者の「わかりにくい」・「面白くない」といった声を生み出しているのでは?と筆者は考えます。
アニメ版の「わかりにくさ」解消のために―考察による作品の再解釈と再発見へ―
では、「アニメ版」によって生じた(拓や里伽子をはじめとする登場人物たちの気持ち)のわかりにくさを解消する方法はないのでしょうか?
あります。
それは、私がこれから記事にしていくことになる、「小説版」の記述を参考に「アニメ版」を考察することです。「アニメ版」のシーンを「小説版」のシーンと突き合わせつつ考察することで、新しい気付きが生まれるのではないでしょうか?
「わからない」・「つまらない」から「へ~そうなんだ~」へ
「小説版」と「アニメ版」の両方に触れることで見えてくるものがある。
次回、いよいよ「アニメ版」の拓が里伽子を好きになっていく過程を、「小説版」を参考にして具体的に追っていきたいと思います。
ー今回のまとめ―
「拓は里伽子をいつ好きになったのか?」
「小説版」は本文に答えが掲載されている。
「アニメ版」はストーリーや構成の変化、視点の変更によって拓の気持ちや考え方の情報量が減少してしまった。
そのため、視聴者が拓の気持ちを掴むことが難しくなり、アニメの「わかりにくさ」・「つまらない」という感想を生み出す要因になっている。
次回、本格的に「アニメ版」拓の気持ちを追っていく。
※記事に使用した場面写真は、スタジオジブリ公式サイトが提供する「スタジオジブリ作品の場面写真」のうち、「海がきこえる」のページのものを使用・加工しております。