イングリッシュマン・イン・ニューヨーク ~グラント・モリソンと『フレックス・メンタロ』~
2000年ごろ「クリエイターから見るアメリカンコミックブック史」のようなものを構想していた際に、そのうちの一章として書いたもの。この企画はシーゲル&シャスター、スタン・リー、ニール・アダムス&デニス・オニール、ジム・シューター……てな感じで一章ごとに評伝風にクリエイターについて書いていく読み物として考えたのだが、なぜか最初に書いたこのモリソン編を仕上げた時点で「こんなものにニーズがあるわけがない」と気づいて自主的に企画ごと没にした。いま考えると、能力、知識的な面でもあの時期にこのスタイルで一冊書こうと考えたのは頭がどうかしていたとしか思えないが、当時は頼まれてもいないのに「アメリカンコミックスについてはなにか総括的なものを書かねばならない」という強迫観念に駆られており、それが911を経て『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』になった。まとまったテキストにしたのはこれ一本だけだが、この没企画段階で他の作家、アーティストについても断片的にメモしたりはしており、アラン・ムーア、フランク・ミラー、カート・ビュシークなどの作家については『戦争は~』や雑誌等で書いた原稿で当時書いた断片を流用したりしている。個人的にこういう文体、スタンスで文章を書くことはもうないだろうと思うのでここにこういうかたちで公開させていただく。モリソン脚本のJLAやアニマルマン、ドゥームパトロールなどの作品についてネタばれを気にせず紹介してるのでそういうのが嫌なひとは読まないほうがいい。
ほんの小さな、もの心がつく前の時期から少年の周囲にはいつもコミックブックがあった。
ビート世代の両親やおじさん、カウンターカルチャーに満ちた彼の家、そこには家族の誰かが買ってきたコミックブックがいつも転がっていた。
彼にとってコミックブックは、学校の友達に教えられたり、ニューススタンドのラックで見つけだしたものではなかった。「気がつくといつもそこにあるもの」だったのだ。
大人たちの喧騒から距離を置き、自分だけの世界へ入り込む。『スーパーマン』や『ジャスティスリーグ』、少年にはその単純で色鮮やかな世界を訪れることがちょうどよい気晴しになった。けれど、新しいコミックスとしてもてはやされはじめていたマーブルコミックスの『スパイダーマン』や『ファンタスティックフォー』は彼の目にはなんだかちょっと怖いもののような気がしてあまり馴染めなかった。
12歳のとき、少年はちょっとした病気を患い入院することになる。
白い壁、高い天井、本当になにもすることがない時間。そんな手持ち無沙汰な時間を持ったことが、はじめて彼にコミックスというメディアに対して自覚的に接することを教えた。日々の時間を埋めるために貪るようにコミックブックを読み、濃密な時間をヒーローたちといっしょに過ごす。
『スーパーボーイ』、『アクションコミックス』、そして一番のお気に入りの『フラッシュ』……この入院以降、彼は自分自身でコミックブックを集めはじめるようになっていく。
DCコミックスのスピードスター『フラッシュ』。赤いコスチュームに身を包み、普通の人間には見えないほどのスピードで動き回り、ほんの一瞬のあいだにパリとホンコンを往復してしまう。彼のスピードは時に光の速さも越え、時間を移動し、やろうと思えば同時に二箇所に存在してみせることもできる。
スーパーマンのように地上最強のパワーを持つわけでも、バットマンのようにわかりやすく感情移入しやすい動機を持つわけでもないこのキャラクターに、彼が身にまとうサイケデリックなイメージに、なんとなく少年は惹かれた。
超高速で歪んだ世界、速度差によって止まっているように見える人々、残像を残して動き回る赤い影、高速による時間移動……そんな奇妙な想像力が生んだ情景が、安っぽいペーパーバックのけばけばしい表紙や彼の家族が体現していたビート世代のアートや音楽のイメージと重なり合い、夢見がちな少年の心に強く焼き付いたのだ。
だから、この世界でもっとも早い男のちょっと変てこな冒険譚はその後もずっと彼のフェイバリットであり続けた。彼が大人になってからもずっと。
スーパーマン、バットマン、スパイダーマン、Xメン……コミックブックの紙面上では、数え切れないほどのヒーローたちがいまも活躍を続けている。
スーパーヒーロー物語の歴史は1938年のスーパーマンの誕生にはじまり、以後60年以上もの期間にわたって「スーパーヒーローという形式」に則った作品がアメリカでは描かれ続けてきた。その意味で、そこに描かれたキャラクターや物語はそれ自体でひとつの歴史を持ち、ある種の象徴的な意味を帯びてもいる。
カート・ビュシークとアレックス・ロスの手になる傑作コミックス『マーヴルズ』の劇中、主人公の老カメラマンがニューヨークのビル街の狭間から空を見上げると、一瞬ケープをひらめかせた「彼ら」のひとりの姿が小さなシルエットとなって見える、という場面がある。
端麗な水彩画で描かれたその情景は、現実のアメリカとフィクションのアメリカがほんの一瞬だけ交錯し、重なりあって見える、作品中でもっとも美しいシーンのひとつだ。
スーパーヒーローたちの物語を読んでいると、たまにこういう瞬間に遭遇することができる。僕たちのようなアメコミ読者にとって、DCユニバースやマーヴルユニバースと名付けられたスーパーヒーローコミックスの物語世界は、それ自体が現実のアメリカと隣あうもうひとつのアメリカ、エルスワールド(ELSE WORLD=改変世界)に他ならない。
そこには固有の歴史があり、固有の人々が生きている。しかし、同時に現実のアメリカの影でもあり、常に変わらず様々な「アメリカの顔」その自画像や肖像画たちが映しだされ続けている。
僕はアメリカン・コミックスが好きだし、スーパーヒーローたちの物語が好きだ。そして、現在その興味や関心のあり方は明らかにこの「二つのアメリカ」の重なりあう部分に向けられている。これまで日本でも何人かの批評家たちがそうした「アメリカのメタファーとしてのコミックス」を発見してきた。かつて小野耕生は60年代アメリカンサブカルチャーの象徴としてマーヴルコミックスを見出してみせ、石上三登志や小鷹信光は開拓期以来のアメリカンヒーローの系譜の中にスーパーヒーローの姿を位置付けてみせた。
僕自身がアメリカンコミックスに対して抱いている関心も、あるいはそうした「アメリカ文化論」の系譜の中に位置付けられるのかもしれない。とはいえ、だとしたらそれはそれ自体としてはかなり奇妙なことのように思える。なぜなら僕はアメリカンコミックスを読みはじめるまではさして「アメリカ」に対して興味を抱いていなかったのだから。
ハリウッド映画に魅せられたわけでもなく、高度経済成長とともに「理想の国アメリカ」に憧れて育ったわけでもない冷戦世代の僕にとって「アメリカ」とはなにもかも飲み込む巨大なマスカルチャーの怪物以上のものではなかった。10代の僕には全世界的な規模で享受され大量に吐き出されるアメリカンエンターテインメントの物語群はまるで紋切り型の集積のように思えたものだ。
ブロックバスター化が進むハリウッド映画、ミリオンセラーという言葉が当り前になりはじめていた偉大なアメリカのベストセラー小説たち、スリルのかけらもない様式美によって構築された産業ロック。別にそうした言い草が指し示している意味がきちんと理解できたわけでもないのに「メジャー」な匂いのするアメリカンカルチャーを僕は条件反射的に嫌悪した。
だから僕はなんとなくヨーロッパ、イギリスのもののほうが好きだった。ヨーロッパの文化の洗練された空気や尖鋭性が、背伸びをしたい盛りであった僕に、「自分はススんでるんだ」という気分を与えてくれたからだ。パンク以降のブリティッシュニューウェーブとブリティッシュギターポップを聞きまくっていたその時期には、それらの表現が「じつはアメリカのポップに対するイギリスからの回答なのではないか」などという発想は微塵もなく、単にそっちのほうがカッコイイじゃないかと思っていた。
もちろんそれはそれで全然正しい考え方ではあるわけだけれど、いま思うと「尖鋭的」で「オルタナティブ」でありさえすれば、それだけで「カッコよく」見えていたんじゃないか、という疑問は拭えない。
僕の中には先人たちが持っていたような骨太である意味オブセッシヴなアメリカへの熱狂の記憶はない。そのかわりじつに中途半端な、サブカル少年らしい「オルタナティブなもの」への憧れだけがあった。10代の頃、僕はそれがいかに薄っぺらなものかに気付かないふりをしながら、先鋭的なサブカルチャーの享受者である自分自身を必死に肯定しようとしていた。そして、その時期に日本で「サブカルチャー」というものがまさに時代をドライブさせていたことが僕の思い込みに拍車をかけた。
つまり10代のその時期「僕はこのままでいいんだ」と思春期特有の強情さで思い込んでいた……いや、思い込もうとしていたのだった。
これとちょうど同じ頃、遠くスコットランドで一人の早熟な少年がコミック作家になろうと決意している。この文章はおおむねその少年についての話である。
ポリスというイギリスの(エセ)パンクバンドのボーカルをやっていたスティングがソロになってから発表した『イングリッシュマン・イン・ニューヨーク』という曲がある。
これはアメリカでのイギリス人の感じる違和感、孤独感を切々と歌ったナンバーだが、ロックやポップス、ミステリやSFといったポップカルチャーにおけるイギリス人の視点にはこの曲で歌われているような微妙な違和感が作品内に視点として混在していることが多い。これは現代のポップカルチャーにおいてアメリカが「スタンダード」であることに由来するものなのだろうが、ポップカルチャー領域でのイギリス人の作品にはこの違和感が独特の自己批評意識となって結実しており、その批評性故に彼らの作品がアメリカ市場を含めたジャンルそれ自体を再活性化する役割を果たすことがしばしばある。
こうしたアメリカ文化に対するイギリスからの逆輸入現象はしばしば「ブリティッシュインベージョン」と呼ばれるが、アメリカンコミックス業界における「それ」は80年代半ばに起こっている。
80年代初頭『ウォリアー』や『2000AD』といったイギリス発のコミック誌が創刊され、それまでアメリカンコミックスの輸入販売がメインであったコミックスジャンルで、アメリカンコミックスのフォーマットを消化しながら、イギリス的な視点で再構築したようなオリジナル作品が発表されはじめた。
『ジャッジ・ドレッド』、『ミラクルマン』、『V・フォー・ヴェンデッタ』……こうした作品群はアメリカにも紹介されて大きな話題を呼び、それらの作品を手がけたクリエーターたちはアメリカの出版社から執筆の依頼を受けるようになっていく。
1998年にリニューアル創刊され、一躍人気タイトルに返り咲いたDCコミックスのオールスターヒーローチームブック『JLA(Justice League of America)』
。このリニューアル創刊で『JLA』の脚本担当に抜擢され、発表と同時に高い評価と人気を獲得したグラント・モリソンというスコットランド人もこの「ブリティッシュインベージョン」ムーブメントによってアメリカ進出を果たしたライターのひとりである。
モリソンは1960年、スコットランドのグラスゴーで生まれた。
ビートニクのおじさんが同居し、幼いころからSF小説やコミックブック、ロックなどビートジェネレーションのサブカルチャーが周囲に溢れかえる中で育ったモリソンは8歳のとき作家になることを志している。少年時代の彼はコミックスにも夢中になってはいたが、このころにはまだ「コミックスライターになろうなんて思ってもいなかった」のだという。
もともと欧米でのコミックスの文化的ヒエラルキーは高いものではない。文学とコミックスの間には日本での第一次アニメブームの時期にアニメファンが「アニメと他のメディア」の間に感じていたような文化的ヒエラルキーの格差があり「コミックスなんて所詮は子供向けだろう」という根強い偏見はいまだに広汎に存在している。
モリソン自身「これはある程度の年齢になったら卒業するものだ」という感覚があったらしい。「ヒップな」家庭環境もあって、ロックを聴いてクラブへ通う先鋭的なティーンエイジャーへと成長した70年代中頃には、彼は当然のように「子供向け」のコミックスに対して関心を失っていた。
彼がコミックスに再び関心を持つようになるのは、80年代に入り、『ウォリアー』に掲載されたアラン・ムーアの仕事に出会ってからのことになる。
のちに『ウォッチメン』の脚本を書き、アメリカンコミックスの歴史に永遠に名を刻むことになるこのライターが描く作品に触れて、モリソンは文字どおり熱狂した。
「アランは嫌がるだろうけど、彼の書くものはまるで僕のために書かれたみたいな気がした。『V・フォー・ベンデッタ』のVの台詞はいまでも思い出せる、奴はこう言う“俺は一族の異端者、20世紀の亡霊だ”これを読んだとき僕は、これこそが自分が読みたいと思っていたもの、『プリズナー』(TVドラマ、邦題『プリズナーNo6』)みたいな、自分が抱いている混沌としたものを言いあらわしてくれているものなんだ……そう思った」
(『WRITERS ON COMICS SCRIPT WRITING』、MARK SALISBURY、TITAN BOOKS刊)
彼が抱いていた世界からの疎外感、思春期の少年の混沌とした心象風景、そういったものと見事にシンクロしたムーアのライティングは、少年が「子供向け」として蔑んでいたコミックスが持つメディアとしての潜在的な可能性を見せつける衝撃的なものだった。
彼はこのときはじめて「コミックス作家になりたい」と強く思った。ムーアの描く物語に共感し、作家志望の少年はすぐさまその希望を現実化するための行動に移りはじめる。17歳で地元の新聞でコミックストリップの連載を開始、これとほぼ同時に大人向けのコミック誌『ニアー・ミス』の立ち上げに参加。その編集スタッフとして活動しながら自身の作品も描き続けていく(当時彼は絵も自分で描いていた)。
その後マーヴルUK(マーヴルコミックスのイギリス支社)から『ゾイド』(日本のメーカー、トミー製のオモチャ)のコミックスを発表、イギリスにおけるメジャーマーケットへと進出。人気雑誌としての地位を確立した『2000AD』で『ゼニス』という作品を連載して好評を博したのち、すでにアメリカ進出を果たしていたアラン・ムーアに続き、先鋭的な作品に対して理解を示しはじめたDCコミックスから89年に『バットマン:アーカム・アサイラム』を発表。
同じくDCコミックスで88年には『アニマルマン』、89年からは『ドゥームパトロール』という二冊の月刊誌の脚本を担当するようになる。彼はこのふたつのタイトルでの「奇妙な味」とでもいうべき独特のスタイルのライティングが主としてクリティカルな面で高い評価を得て、アメリカでのコミックライターとしての地位を不動のものとした。
ちなみにこれらの作品の発表はアラン・ムーアの『スワンプシング』やニール・ゲイマンの『サンドマン』などと並んで、DCコミックスが大人向けコミックスレーベル「ヴァーティゴ」をはじめる直接的なキッカケになっている。
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