見出し画像

美しいストーリーに食い殺される

思い出を美化してしまう。そして、その思い出に苦しめられる。

苦しい思い出を消化するために、ときにその思い出を美化してしまう。
苦しい思い出を消化するため、は「乗り越えた自分」を肯定するため、と言い換えてもいい。下積みや修行、挫折の経験が成功につながっている、というのは耳触りがいい。つらければつらいほどそれを乗り越える感動は大きい。美しいストーリーは語りたくなり、何度も何度も繰り返し語ってしまう。

そのせいで現実がうまく見られなくなることがある。
つらかったことを乗り越えた自分なら、別のつらいことにも立ち向かえると思い始める。あの頃の自分は強い自分だったと思いたくなる。その姿勢ならもっと高みを目指せると思ってしまう。

中学・高校時代のテスト前、クラスでは必ずと言っていいほど勉強をどのくらいしたかの話でもちきりだった。「徹夜しちゃったよ」とか、「全然勉強してない」といった声が飛び交う。

たぶん、の話をする。勉強を身につけるという意味では習慣として勉強をして、コンディションを整えてテストに向かうのが一番の方法だった。見せかけの点数を高めるために、徹夜も、不安をごまかすために別のことをする必要もなかった。やるべきことを整理して、必要なだけやればよかった。

徹夜をしてテストでいい点を取ったときの満足感は大きい。睡眠時間を犠牲にして勉強にささげ、目標の点数に到達するストーリーは美しい。後から振り返るときもあの時は頑張ったな、と思うのだろう。

ただ、心の健康に悪い場合もある。集中してきつい思いをして得られたものは思い入れてしまう。心にかけた負荷を肯定するためには、結果が出ていると信じる必要がある。短期的な力強さは脆さをはらむ。現実的に考えて失敗している状況でも、あの時のように頑張れば何とかなると過信してしまう。

こうなると自信が崩れた場合に立ち直りづらい。結果が出ていたことで感じずにすんでいた、かつて自分にかけた負荷が後からのしかかる。時間も無駄にしたのではないかと思い始める。一気に負荷をかけて頑張ることに慣れていると、結果を出そうとするときに同じ方法をとろうとし、失敗すると負荷をかけることが途端に怖くなる。どんどん消極的になるサイクルにはまる。

昨夏、僕は会社に行けなくなったが、その時はこういうことが積み重なっていた気がする。日々につかれて心は悲鳴を上げていたのに、高校時代の受験勉強や部活のきつい練習、短期間で結果を求められ続けたアルバイト、大学で大勢を前にしてパフォーマンスをした舞台のことを思い出して、もっと頑張れるはずだと自分に発破をかけ続けていた。とうの昔にガソリン切れになった体にそれでもエンジンを掛けようとしていた。自分の信じていた美しい記憶に、僕は食い殺されかけた。

でも、殺されはしなかった。今生きているのは、この生身の体だと、バカみたいに当たり前のことに気がついたからだ。その体を、たとえ過去の自分であっても苦しめる権利はないのだと思った。今に向き合えないなら、美しい思い出と決別することもきっと必要だ。

できれば健康的に思い出をとらえたいと今は思う。なかなかうまくはできないけれど、本当は美化する必要も卑下する必要もない。身体のように良くも悪くも自分にくっついてくるからには、しゃあないなあ、と向き合うしか無いのだろうなと思う。

過去の思い出には殺されたくない。今を生きるのは、今の自分だ。


素直に書きます。出会った人やものが、自分の人生からどう見えるのかを記録しています。