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『全身ハードコア GGアリン』発、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』着
『全身ハードコア GGアリン』(1993年/トッド・フィリップス)
【あらすじ】
全裸になって大暴れしても笑われる
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が日本で公開されるや否や、抗いようが無い形で本国での酷評を前提に「前評判通りつまらない」「そこまでつまらなくなかった」「酷評されてるけど面白かった」等という感想が飛び交っている状況があり、心底気持ちが悪い。
こういったバイアスはもの凄く不健全だなーと感じる派で、はっきり言ってしまうと、パンピーとかその他大勢とか大衆の意見とかとあなた自身の感想は関係なくて、映画鑑賞には「映画」と「あなた(自分)」の二者関係しかないのだから、その孤独で寂しい作業の末に豊かさと接見できる瞬間がある、ということを失念してはならない。
そもそも、ロッテントマトのトマトメーター然りフィルマークスの平均点数然り、映画作品を総体的に採点する行為自体全く信用したことがない。どんな作品にも良いところと駄目なところがあって、それは数値として比較できるようなものではないからだ(個人の主観での100点!とか0点!と銘打つ行為は気持ちの表明ではあるからあってもいいけれど、それが集合知としては機能しない、という気持ち)。
で、何が言いたいのかと言うと、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』然り『ジョーカー』然り、監督のトッド・フィリップスがそれまでどんな映画を作ってきたのかについて語られる論が少なくて、作品のベクトルについて驚嘆しつつ「コメディ出身の監督がこんな衝撃作を作るなんて」とか「なんでわざわざこんな内容の続編にしたんだよ」みたいな脊髄反射的な感想があまりにも多くて、ちゃんと居心地が悪い。
なぜなら、トッド・フィリップスは初監督作品である本作から一貫して、毎作品同じようなテーマ、キャラクターについて表現を続けてきたからだ。
(トッド・フィリップスが『ジョーカー』の監督に就任?!と驚いていた人たちは、作家なんかに興味が無いんだなと5年前にも感じたけれど)
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GGアリンはハードコアパンクロッカーで、演奏中に全裸になり、自傷行為をして、終いには脱糞までする。突然観客に殴りかかったりもする。ライブで大暴走して、毎回警察が駆けつける。歌詞の内容も「ぶっ殺すぞ!」とか「レイプしてやる!」とか、乱暴な言葉が並んでいる。
ところが、その観客たちはGGアリンが暴走すればするほど、爆笑するのである。
まず、全裸になって露わになるアリンの男性器がめっちゃ小さい。マジで小さいので、チンチンの小さなおじさんがうぎゃー!とか犯してやるー!とか言ってきても、もう面白くて仕方ないのだ。
そんなおじさんが目の前でウンコをして、どうだ汚いだろ!と叫んだところで、それは笑いの対象なのである。
ついでに、アリンは観客にぶっ殺すぞ!と殴りかかるが、めちゃくちゃ体力がないので、逆に観客にボコボコに殴り返されてしまう。
乱暴な歌詞は中学生が書いたような罵詈雑言で、というかパンクとは言えいくらなんでも低レベルすぎて、必死で死ね死ね!と叫ぶアリンを見ながら、観客は「厨ニ病乙www」と達観した目線で笑うのである。
アリンがマイクパフォーマンスでどれだけ恐ろしいことを言おうが、観客たちは「はいはいw」「おーこわいこわいw」と、ずっと笑っている。
GGアリンは、ずっとスベり続ける。彼が観客に示したい姿と、観客が彼に求める姿の乖離。
これは、まるで『ジョーカー』の内容と酷似してはいないだろうか?
あるいは、『ハングオーバー』に登場したザック・ガリフィアナキスやケン・チョンのイメージにも影響を与えているのが伺える。
だからトッド・フィリップスが『ジョーカー』を撮ったことは、まるで意外性のない、必然的な選択であったことが顕著となる。
カメラが回っている時、もしくは相手(観客)がいる時、GGアリンは常に暴れていた。過激な言動、エクストリームな行動ばかりしていた。
けれども「本当の彼は大人しくて真面目な人だったのではないだろうか?」と、その仮面の下の素顔を探り当てる瞬間が、このドキュメンタリーにはある。
実際、GGアリンはパフォーマンスとして前述したような言動や行動を取っていたという証言も多い。
つまり、彼はピエロだった。
GGアリンが36歳で急死したことによって、このドキュメンタリー映画は生前の彼を映した貴重なフィルムとして機能している(映画の撮影中に亡くなってしまう)。
ひとりのアウトサイダーに対して、周囲同様に嘲笑うのではなく、その背景に寄り添い、なんとか「本当のあなたを見せてほしい」と懇願していく眼差しは、『ジョーカー』二部作でも徹底されたトッド・フィリップスの作法に他ならない。
トッド・フィリップスは、決してアリンを馬鹿にするためにこの映画を撮っていなくて、常に寄り添おうと、味方をしようと、やさしい眼差しで撮っていることが本当に好感が持てる。
そういった社会ののけ者に対して、1作目から意識的な視点で寄り添うことを続けてきたのが、トッド・フィリップスという監督だ。
こんな逸話がある。
トッド・フィリップスは本作の宣伝のために、ポスターのデザインをある一人の男に依頼した。
その男がいるのは……刑務所。
面会室を訪れたフィリップスの前に現れたのは、なんとジョン・ウェイン・ゲイシー。
かの有名な殺人ピエロ、30人以上の子どもたちを殺害して、スティーブン・キングの『IT』のモデルにもなったシリアルキラーだ。
ゲイシーは逮捕前から絵を描くのが趣味で、刑務所で服役中も常に絵を描いていたらしい。
ゲイシーにシンパシーを抱く危うい人たちが、彼が手掛けたポスターを購入してくれたおかげで、製作費をだいぶ回収できたそうだ。
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この映画は、殺人ピエロのジョン・ゲイシーがGGアリンについて語ったコメントの引用から始まる。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』でアーサーと面会するリー(ハーレイ・クイン)は、もしかしたらトッド・フィリップス本人だったのかもしれない。
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