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『ヘイトフル・エイト』 人を救うフィクションと人を殺すフィクション

『ヘイトフル・エイト』(2015年/クエンティン・タランティーノ)

【あらすじ】
悪い人たち同士で嘘をつき合う

「見知らぬ赤の他人同士が密室に閉じ込められる」映画というのは大抵の場合、事態は良からぬ方向へと展開していくものがほとんどだ。本作もその定型に当てはまる訳だけれど、まずもって「見知らぬ赤の他人同士が密室に閉じ込められる」というのは、つまるところ「映画館」のことだ。

当然、僕らは映画館でウソを眺めた後に、しっかりとそこから「脱出」することが可能である。そういった点で『ヘイトフル・エイト』は構造的に、血まみれ嘘まみれフル・オブ・ヘイトな地獄の密室劇を、この世で最も幸福な密室空間で観客に見せるという方法を徹底させている(70mmウルトラ・パナビジョン方式やロードショー上映にタランティーノがこだわったのも、本作が「映画館」という密室で目撃されることに意味が付帯するからなのではないか)。

だから、僕ら観客は映画館から「脱出」する時に改めて感じる。「彼らも本当はこうして出ることが出来たんじゃないのか?なぜ、彼らは出られなかったのか?」彼らと異なることはただ一つ。僕らは同じ映画を、同じ"ウソ"を、一緒に仲良く楽しんだことだ。

まさに現実そのものが出口なしの地獄と化した現在、『ヘイトフル・エイト』は猛吹雪の中のロッジそれ自体を"アメリカ合衆国"として象徴的に描く。
ゆえに、タランティーノのフィルモグラフィ上で最も社会的なフィルムになっているし、最も絶望的なフィルムと化している。167分間持続する緊張感は、もちろんそれが映画的な快感であると同時に、僕らが生きている時代に通底している、緊張感それ自体でもある。

本作の元ネタは、密室サスペンス『遊星からの物体X』+スペイン残酷西部劇『カットスロート・ナイン』+タランティーノが敬愛するエルモア・レナード原作の『太陽の中の対決』+絞首刑西部劇『牛泥棒』+その影響下にあり、スミサーズ役のブルース・ダーンがイーストウッドに護送される死刑囚を演じた『奴らを高く吊るせ!』+リーガンのテーマは『エクソシスト 2』で、それらがごちゃ混ぜになっていて……というような映画マニア的なマッピングは、実は本作に関してはさほど重要ではないと思う(ならば列挙すな)。

本作がとにかく素晴らしいのは、「嘘=フィクションとは、絶対的に人を"感動"させることが出来る」というメッセージにある。本質的に僕らは他の生き物と違って、そのウソが良かれ悪かれ、フィクション自体に"感動"してしまう能力が備わっている。感動とは涙を流すことだけではない。怒りや憎悪も感動だし、苦しみや恐怖も感動だ。どんな状況においても、フィクションは人の"心を動かす"。そして、フィクションによる感動でしか味わえないエモーションというのが必ず存在している。ウソが人を救う時もあれば、ウソが人を殺す時もある。

『ヘイトフル・エイト』はウソにまみれた映画だけれど、ウソや虚構やフィクションを嫌悪する理由は一つも無いんだと強く断言してみせる。フィクションをナメんな!と。「つまらない本当よりも、面白い嘘を」という、映画愛というよりもフィクション愛。あの絶望的なラストシーンの、あの手に手を取り合って成し遂げられた絶望の時間に、唯一光り輝く"嘘"を、心から美しく思える人間で良かったと思いました。

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