『ハッピー・デス・デイ 2U』 わたしたちの日常こそが「ホラー映画」であることを表象する、誠実で美しい恐怖讃歌
『ハッピー・デス・デイ 2U』(2019年/クリストファー・ランドン)
【あらすじ】
ビッチちゃんが別次元で、再び誕生日に何度も殺される。
2の方が好き。これが作りたくて1を撮ったんじゃないか?!ってくらい脚本もアイデアも前作の使い方もよく出来ていて、つまりは『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』的発想で傑作になり得た続編。
もはや、1と2、セットで好きではあるけれど。
どう考えても1と2同時撮影したよね、というほどに俳優も美術も衣装も芝居もそのままで、1と2の撮影に2年のスパンがあったことを後から知って驚嘆した。
たかが2年と思うなかれ。どんだけ映画のセットや芝居の再現化が難しくてメンドウなものか……。端的に、あまりにもそういった「時間」を感じさせない辺り、やっぱり俳優ってスゲーな……と感動した。
(『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』のドクことクリストファー・ロイドの芝居もこの類の凄さがあった)
続編でまたタイムリープものをやったところで飽きられると理解していて、序盤でそこから脱却しちゃうのはいさぎがいい。
で、要はマルチバースもの、パラレルワールドもの、多元宇宙映画をホラーでやるのが今回のアイデアで、しかも舞台となるのがまたあの日……という、前作のファンにとってたまらない設計。主人公が誰よりも絶望して発狂寸前なのが、前作を観ているともうめちゃくちゃ面白い。
しかも前作を全く蔑ろにしていない、むしろ前作で描いた事柄に対して、テーゼとアンチテーゼをアンビバレントにぶつけていく過程がオンリーワンな魅力になっている。
特に、死んでいる人が生きている、というアイデアを見事に利用して、主人公の母親がメンター的な役割を果たしているのがとっても良い。ちゃんと誘惑的な役割なのに、しっかりと道しるべ的存在でもあるのだ。
ジャンル映画にどう向き合うか、そういった志しは前作からも感じられたけれど、本作はさらに「ジャンル映画、ひいては続編映画はなぜ存在しているのか」そういった問いかけに対して懸命に向き合う姿勢に誠意を感じる。
そう、誠意を感じる。
この主人公にまた会いたい、またこの主人公が困ったり笑ったりしてるのが観たい、そういった観客の欲求が彼女を再びタイムリープさせる。
そう考えると、観客にも加害性がある。共犯者だ。
けれども、やがて映画は「この時間は彼女にとってこのためにあったのです」と気付かせてくれる。
観客の罪はいつだって赦される。
ジャンル映画は、続編映画は、いつだって赦してくれるのだ。
劇中、主人公が「殺されるより先に自殺して何度もセルフタイムリープする」というモンタージュがある。
このモンタージュが、まさにホラーとコメディのケミストリー炸裂な素晴らしい出来だ。
ノリは軽い。まんべんなく軽い。
けれども、自殺する彼女の楽しそうではつらつとした可愛さ、死を恐怖していない、むしろ脱力すらしているようなオフビート感、死へ向かう強さ、そして死んでいく彼女を見ることの純粋無垢な喜び、あらゆる感情がフィックスされている。
『めまい』のように時計台から両手を広げて飛び降りる彼女が、シームレスにベッドの上へとタイムリープする演出は、あまりにも美しい。泣きそうになった。
人は毎日、起きて寝てを繰り返し、昨日と今日を繰り返す。
それはまるで、毎日生まれてから死んで、また生まれ直しているようなものだ。
だから、主人公が時計台という「時間」から飛び降りた先がベッドなのは象徴的でしかない。
毎日「もうこんな時間か、寝るか」と僕たちがやってることを、ジャンル映画として再現するとこうなる、こんなに面白い、こんなに美しいことなんだよ、とやってくれる。この誠意。
恐怖と向き合い、でもその恐怖を笑っちゃえ、恐怖って面白いでしょ、と伝えてくれる。その誠意。
誠実で美しい映画だと思います。