『FYRE: 夢に終わった史上最高のパーティー』 あきらめられなかった人が見る地獄
『FYRE: 夢に終わった史上最高のパーティー』(2019年/クリス・スミス)
【あらすじ】
リア充によるリア充のためのリア充のパーティーが大失敗する。
「やり方が分かるからやるんじゃないでしょ、やりたいからやるんでしょ」という言葉は、岩切一空監督『花に嵐』での里々花の名台詞なのだけれど、この言葉は"まやかし"だ。
確かに、技術的に構築された映画よりも、生まれて初めてカメラを持ったかのような衝動のままに撮られた映画こそ真に傑作たり得る、という創作論には強固な美しさがある。
『花に嵐』における里々花こと花は、その言葉をカメラに向かって投げかける時点で、映画の天使として機能する。しかしながら、天使が福音をもたらすその相手は、『花に嵐』の監督である岩切一空なのだ。孤高の天才が主語となったとき、その言葉は普遍性を失う。とは言い過ぎかもしれないが、世に溢れるクリエイターは彼のような天才や鬼才ばかりではない。そのほとんどが、どこまで突き詰めても凡庸で、その凡庸さを隠蔽するためにクリエイター"ぶって"、堕落していく。天使の後押しは同時に、相手によっては悪魔の囁きへと変貌する。
「やり方が分かるからやるんじゃないでしょ、やりたいからやるんでしょ」
よっしゃ、俺たちもいっちょやってやろうぜ!!
かくして、本作には天使が存在しない。FYRE主催者は文字通り「やり方が分からないのにやった人々」であり、理想論だけを掲げた結果、取り返しのつかない大惨事だけが残った。
勢いと金ですべてが解決すると問題を先延ばしにした結果、罪だけが山積みされて罰だけが会場を奇襲した。傷付けた人々と、傷付いた人々の一生癒えない傷だけが、成仏できない亡霊のようにカメラの前で漂う。
このNetflixオリジナルドキュメンタリーは明確にホラー映画であり、僕にとっては、この年に観たどの映画よりも本当に、本作に恐ろしかった。最も近い作品はギャスパー・ノエの『CLIMAX』で、あの映画も後半で地獄絵図が展開されるが、あちらがフィクションだったことに対して、『FYRE』の地獄絵図は、紛れもなく現実で(しかも最近に)起きたことだというのだから、あきれると同時に寒気がする。
FYREというありもしない幻想を売って、そのファンタジーに飛び付いた人々全員を巻き込んで、ほとんど黙示録的な地獄が孤島に出現するのを観て、下には下がいるという不健全な希望すら抱いた。
SNSが支配する情報社会となった。インスタグラムやXでは、毎秒、モデルやセレブたちの最高にハッピーな写真が投稿され続け、共感したり憧れたり、あるいは"取り残されないように"いいねを押してリツイートをする。自分は普通ではなく特別な存在であることを証明するために、いいねやリツイートの数だけを毎日気にする。フォロー数よりフォロワー数の方が多いことが価値だと信じ込む。この資本主義社会というすごろくのアガリとして、ここではないどこかに楽園があると信じて、本当に信じて、そこに行くために努力し、生きている人々がいる。
当たり前のことを書くが、この世にそんな楽園はない。すべてはメディアが作り出した嘘だ。でもそのきらびやかな嘘に、人々が食らいついてしまうということも熟知しながら、今日も懲りずに嘘は蔓延していく。思考停止したバカたちにとって、まやかしも現実も、分かりっこないのだと。ああ、自分は騙されていたんだと気付いた時には、そこはもう地獄の底だ。
もっと早く中止にしていれば、こんなことは起きなかった。本作で描かれる罪は、嘘をつき続けてしまったことよりも、「あきらめることができなかったこと」だと考える。
「あきらめる」という潔さを、常に失念してはならない。
一度でも集団でモノを作ったことがある、すべてのクリエイターたちにこの映画を捧げます。