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『口裂け女2』 悲劇に絶望し尽くした者だけが辿り着く「恐怖の彼岸」という解放

『口裂け女2』(2008年/寺内康太郎)

【あらすじ】
妹のわたしばかりが不幸になっていく

『キャンディマン』を観ていて想起した傑作。
どちらも都市伝説をテーマにしている以前に、悲劇に対して絶望し尽くした人間が辿り着く、恐怖のイコンと化す被害者が描かれている。

『口裂け女2』は"2"表記ではあるものの、続編ではなくむしろオリジンだ。
実際に口裂け女の発祥地とされている岐阜県を舞台に、平凡なひとりの少女が、なぜ日本中で恐れられる口裂け女になってしまったのか、その爆誕までの物語となっている。
そして一切救いがなく、陰鬱とした空気が通底している、悲惨なヒトコワ地獄巡り映画である。

あまりにも恐ろしい目に遭うと、人は恐ろしい存在それ自体になってしまう。
『リング』の貞子然り、『呪怨』の伽倻子然り。
ホラー映画、都市伝説やフォークロアで語られるイコンの多くは、むしろ悲劇の"被害者"側なのではないだろうか。

日常に潜む悲劇の数々が、あまりにも容赦なく主人公の少女を追い詰めていく。その手際は、さながらサディスティックに映りかねないところを、被害者たる主人公へ真剣に寄り添ってみせていると感じられた。

ホラー映画が可能な表現の一つに「弱者へ寄り添うこと」があると考えているけれど、『口裂け女2』にはそういった寄り添うことの美学が徹底している。
だからこの映画は、終始悲しくて、虚しくて、切ない。

悲劇が駆動した瞬間から、その連鎖反応を誰にも止められることなんて不可能で、ただただ悲劇だけが発生し、蓄積していく。
その悲劇の原因と思しき事象は、本来は姉側にあって、主人公の外側に存在しているものだった。にも関わらず、まるで姉の身代わりになるようにして、主人公は生贄の呪縛から逃れることができない。
あまりにも理不尽に、ここでは因果律が破綻している。その不条理な恐怖。悲劇と勝手に関係を結ばれていく恐怖。

悲劇がひとつ起きた。でも生きていればきっといいことがある。そんな希望的観測を打ち砕く絶望だけが漂う映画。

事ここにおいて、主人公が幾多の悲劇によって尊厳を喪失し、自意識を剥奪され、自分ではない"怪物"になっていく姿を描き切ることによって、
逆説的に彼女のことを"怪物"として扱う観客は誰もいなくなるだろうというリスペクトがある。
日本中を震撼させた口裂け女を救済してみせる、ただ一本の力強い映画。

マスク姿の彼女を嘲笑って悲劇に加担する者ばかりではなく、もしひとりでも寄り添う人がいたのならば、彼女はハサミを振りかざすことも、返り血を浴びることもなかっただろうに……。
という感情を「ねえ、口裂け女って知ってる?」と友達と噂話しているときのあなたは、果たして抱いていただろうか?

彼女が劇中でハサミを突き刺す対象たちのことを、彼女は信頼していた。
だからこそ、許せない、刺さねばならなかった。
あまりにも虚しい……。

心霊マスターテープ、フェイクドキュメンタリーQ、TXQ FICTION『イシナガキクエを探しています』などを手掛けた寺内康太郎監督のフィルモグラフィで、もしかしたら一番好きな作品かもしれません。

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