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第3回日本ホラー映画大賞【極私的】総括①受賞候補作・全作品レビュー

11月15日、第3回日本ホラー映画大賞・受賞候補作の上映会に伺いました。

池袋グランドシネマサンシャインのシアター6が満席!ただならぬ熱気の中、息を潜めて新たな恐怖を見守った約3時間。

結論からいえば、第3回、めちゃくちゃレベル高かったです

まさかここまで一気にレベルが底上げされるとは。第1回、第2回を経た約1年半のスパンで、着実に「本気で」ホラー映画を撮った作家たちが増えたということでしょう。
大袈裟ではなく、当日は一体どれが大賞を受賞するのか分かりませんでした。なるほど、今回はこれが圧倒的大賞!と呼べるような作品がいくつもある。そして、そんな状況を我々ホラー映画ファンは望んでいたことは間違いありません。

この度はせっかくですから備忘録として、フラットな観客の視点で、忖度なしに各作品への雑感を綴ります。
果てしなく独断と偏見が混在しておりますが、こういったアソビこそがコンペティションの醍醐味に他なりませんので。

前置きとして言い訳めいたことを書きます。
ここから先に記している感想は、あくまでも僕個人の感想です。
本来であれば、当たり障りのないことを書き、適当に褒めてさえいれば、誰の機嫌も損なわないわけです。特に、自主映画においては。しかし、そういった馴れ合い的な消費も、内輪での褒め合いっこも、どうしても回避したい性分でして……。観客と作り手が癒着してしまっては、それは僕らが望むホラー映画界の健全さから遠のく気がするのです。
ですから、めちゃくちゃ褒めている作品もあれば、疑問に感じた点を正直に指摘している作品もあります。
本気で挑んだ監督たち、作品たちに対する最大限のリスペクトとして、そこに嘘はつきたくありませんので、何卒ご理解いただけましたら幸いです。

……ということを、僕だけがやっても生産性がありませんから、是非とも全作ご覧になられた皆さま、どんな感想でも良いので書いてみてください!(作り手視点としては、何も書かれないことが最も不安なので)

今回は特に、作品の上映と授賞式の間にブランクがあった(これまでは授賞式→休憩→全作上映という流れだった)ことを最大限に活用して、観客のひとりひとりが批評的視点を用いることが可能でした。
あなたにとっての「ホラー映画大賞」を考えてみることが、必ずホラー映画全体にグッドバイブスを与えることに繋がると信じています。

前置きが長くなりました。
では、書いていきます!

※なるべく作品のイメージが視覚的にも伝わるように、SNSなどで該当作の画像が発見できたものは、引用の範疇において画像を使用させていただいております。
※直接的なネタバレは避けて執筆しておりますが、極力情報を入れたくないという方はご容赦ください。

『リフレイン』(監督:司馬宙)

まずはロケーションの勝利。一体どのようなロケハンをすれば、「まさしくここでホラー映画を撮らねばならない」というあの場所を発見できるのでしょうか。異様なまでの磁場と空気感。異世界を象徴するかのような廃ビル。そういったロケーションに対する審美眼に感心しました。

本作は9作品中1本目に上映されたわけですが、その開幕に相応しい素晴らしいオープニングクレジットでした。構図も、そこで行われている不気味な動作にしても、「間違いなくホラー映画と呼べるものが始まった」という興奮に満ちていました。本編は割りかしザクザクとカッティングを重ねていくこともあり、このオープニングクレジットの長回しは、鑑賞後も印象に残り続けています。「一体何が始まるのだろう」というワクワク感といい、「もしかすると第3回、レベル底上げされてる……?」という予感が既にありました。

カットが切り替わる過程において、時間も場所も次第に歪んでいく感覚は、まさしく映画特有の「魔/間」の感覚で、こういったトリッキーな作法は大変見事でした。言ってみれば、実験映画的な試みでもありつつ、しかし小難しさは感じさせない。恐らく、「映画」というメディア以外では表象不可能であろうそのアイデアを、丹念にホラー映画へと昇華させていたと感じました。

『リフレイン』に関しては、早くからクラウドファンディングを催しているのを見聞きしていました(傾向と対策のため、めちゃくちゃディグっていました)。その先入観もあってか、こちらもかなり身構えて観てしまったことは確かです。

個人的に疑問を感じた演出もありました。怖い役柄の俳優に、怖い台詞を、怖く発話させることに関しては、僕はあまり納得していません。これは好みの問題でしかありませんが、俳優自身の「怖がらせる」という自意識を抑制することによって、それが表面的な(ステレオタイプな)「怖い芝居」から脱却できると考えているからです。怖い台詞を怖く発話することは、案外簡単な演出だなあと感じてしまうたちなので……。
それはリアクションの芝居においても同様で、「ごめんなさい」と激情的に、連続して叫び通すことが「芝居」なのか、もしくは「演出」なのかと、個人的には違和感がありました。なるべくは、「ごめんなさい」と何度も叫びたくなった時こそ、その真逆の芝居を演出してみる。そういった俳優と監督の試行錯誤の中に、キャラクターの「幅」や「厚み」、「思考」が派生してくるのだと思います。

そして、若干厳しいことを正直に書き残しておくと、クラウドファンディングを試みた末に、この録音/整音のクオリティでOKを出してしまっていいのだろうか、とも感じました。スクリーン音響を前提にしたポストプロダクションの重要性というものが、あまりにも蔑ろにされている気配すら感じます。結局、自主映画が陥りがちな「音よりも映像優先」という無意識的な罠が、カットごとに環境音がバラバラ、ベースノイズすら乗っていない状況を作り出してしまったのではないでしょうか(特にOP以降の冒頭数分間)。

ところが、監督は絶対的に「音」にはこだわりがある方だと見受けられて、それは、おぞましい予感を漂わせるオープニングクレジットに顕著に表れています。ここでは、まるでチョークが地面をえぐるような「不快な音」の表象に成功していました。
その圧倒的かつ象徴的な「音」の演出がファーストショットにあったからこそ、それ以降の「音」の扱いに関して、惜しい!勿体無い!と感じてしまったのです。

自主映画における「録音/整音」の問題というのは、これまで/これからも課題かと思われますが(そして、特にホラー映画において「音響」は重要なエレメントですが)、そういった前提を吟味/解決した暁には、作家としてのより一層のスキルアップが期待できそうです。って、初っ端から偉そうなんですが、本当に期待しています。表象しているアイデアは独創的で面白いですし、「映画」のカットが持つ魔力をしっかりと行使できていらっしゃるので、技術的な研磨が達成された次回作も是非拝見したいです。

『蠱毒』(監督:澁谷桂一)

スクリーンで鑑賞した『蠱毒』が、ここまで場の空気を支配する力を持っていたとはと、純粋に感動しました。
YouTube上で公開された末にスマッシュヒットした本作は、紛れもなく、スクリーンを目指して撮られた作品でもあったことが証明されたと思います。インターネットでの公開から映画館での上映まで、作家の意識や意図から遠く離れて、『蠱毒』そのものがスクリーンに向かって浮遊し、推進し続けていた、そんな数ヶ月間だったと感じます。

あらゆる映画作品に関して指摘できることですが、この作品においても、YouTube上でインスタントに消費されることが当然前提となっているわけではありません。スクリーンに光と影によって映写された『蠱毒』は、そういったインスタント性から乖離しながら、闇を明瞭に表象することに成功していました。
こうしてようやく『蠱毒』は完成したのだな、と感じましたね。

独特のカッティングも不気味な予兆をもたらしていますが、なんと言っても特筆すべきは映像の質感それ自体の魅力でしょう。
古ぼけたフィルムの粒子がきらめいているようなザラザラとした映像には、ノスタルジー以前に「もうここにはないもの」が「まさしく今ここにあるもの」として表象されている心地よさが感じられました。
それが、ホラー映画と相性が良いことを感覚的に捉え直し、高画質に抵抗する粗さ=くっきりと、はっきりとした記録そのものへの抵抗というオブセッションが、本作の物語性それ自体にも影響を与えているように思いました。

そういった映像が、ひっくるめてポエジーに昇華してしまうことを抑止するが如く、あくまでも冷め切った、無機質で異様なロケーションが相反/相乗効果を生み出しているのも良かったです。

撮影、編集、ロケーションに対する眼差しのひとつひとつが、不穏な空間演出として総体的に機能したのだと思います。

台詞と発話に関して、特に前半、演劇的な磁場に接近する瞬間があり(カメラワークによってギリ回避しているけれど)、個人的にはちょっとだけ冷静になってしまうんですよね。台詞の抑揚みたいな、どこにアクセントを置くかという判断に際して、「ホラー映画」という世界観から軽く離脱しそうになる(完全に好みです)。
けれども、これこそが澁谷桂一の作家性というか言語感覚だとも理解していて、「ホラー映画」というよりも「『蠱毒』の中ではこう喋るんだよ」という理屈でしかないと思っています。
で、後半はメリハリが効くかのように対話そのものを魅せていく。ちゃんとその語りも、内容もこわい。下手すると舞台芝居的な解釈で表現してしまいそうなところを、しっかりと映像演技でラストまで貫き通す、木村美月さんが素晴らしかったですね。
大のホラー好きだというつぐみさんの眼光鋭いフォトジェニックさや、中村美優さんの抑制された戸惑いの芝居など、演者のアンサンブルとバランスに長けていたとも感じます。

ラストショットの不穏さがものすごくいいです。
あと謎に(?)エンドクレジットの曲がかっこいい。

『蠱毒』をYouTubeで拝見した際に、僕は「男性視点じゃないいちご100%みたいだな」なんて呑気なことも思っていたのですが、それがあれよあれよと、ホラーファンたちの間に浸透し、そして日本ホラー映画大賞に入選……果たしてこれはすべて運なのかと問われたら、答えはノーです。監督の実力によって実った夢物語。今後もどんなホラー映画を撮ってくれるのか期待しています。

『異星人回鍋肉』(監督:小泉雄也)

俳優にどういった演技を演出するのか、という以前に「なるべく尺を使わずに登場キャラクターたちの特性を説明する」、その手際の良さでいえばダントツだったかもしれません。
映画監督、もっといえば娯楽映画の監督の裁量とは、「短距離で必要最低限の情報を、最も的確な順序で、そつなく処理できる」運動神経だと考えています。
そういった意味において、『異星人回鍋肉』の小泉監督には、やっぱり映画を撮り続けてほしいですね。うまいです。

一見するとブラックユーモアな作風、コメディとしての印象が抱かれがちですが、根底に強烈な風刺が効いているため、なんなら結構厭な後味が残りました。
残りつつ、ポップで楽しくて、可愛らしくて、その上ゴア描写も備えている。エンタメ作品をしっかりと撮れる作家として、信頼ができました。

クライマックスで「あの音」と「あの画」を重ね合わせる判断力。ただ単に人が料理を食べている光景を映すだけで、ちゃんと厭さが発生している。
もはや異化効果にも似た抜群のセンスで、こういった演出に「ホラー映画」に対する着眼点の面白さは滲み出ているはずです。

頑なに宇宙人を「学生」と呼ぶのも面白いし、「学生じゃない!」と反論したときは笑いましたね。ユーモアの感覚が、めっちゃ軽妙。頭じゃなくて、心で人のことを見つめているのが伝わってくる、なんだかそんなハートフルさすら感じるに至ったという……。

ただ、本作はれっきとしたホラー映画でありながら、「怖さ」を軸に評価をするとしたら、若干惜しい立場にあるのも事実かと思います。
後半のゴア展開も、やっぱり出てくるキャラクターたちが皆それなりに魅力的に描かれているため、恐怖する対象にはなり得ていなかったと感じました。でも、そこが本作の良いところ!でもあるという。

当然、「怖いっておもしろい!」「怖いって楽しい!」というベクトルには賛同しています。でも、小泉監督の力量ならば、両手を目で覆いたくなるような、アクロバットな恐怖演出も撮れる気がしています。
たとえば、この題材で『八仙飯店之人肉饅頭』のようなスプラッターを欲求していたわけではありませんが、本心では、小泉監督が本気で挑んだ「怖い」映画も観てみたくなりました。

また、『リフレイン』の感想にも書いた通り、願わくば、録音/整音に技術を割いていただければ、劇場で流せるクオリティに仕上がっていたと感じました(音声出力の音量が小さかった?)。前作『笑顔の町』は外ロケでもそんなに音のことは気にならなかったので、今回ロケセットで逆に制約があったのか、それともポストプロダクション的な問題だったのか。少し勿体なかったです。

でも結論としては、この監督はキャラクターに対しての眼差しが信頼できるし、ちゃんと運動神経も備わっているな〜と感じられるので、好意的に楽しみました。

『2階に恐竜がいる』(監督:増本竜馬)

いやあ、素晴らしかったですね。個人的には、めちゃくちゃ好みでした。
まずもって、このタイトル。
『2階に恐竜がいる』
めっちゃ観たい!なにどういう映画?!気になる!
そのセンスだけでも脱帽なんですが、そんなメインタイトルの出し方も、本作がいちばん好みでした。タイミングと配置、どんな映像のどんな構図でどんなフォントで出すか、あまりにも正解!という気持ちよさ。

ヒキがあるタイトルのインパクトに劣ることなく、本編自体は静かに、しかし確実に日常が、生活が、住居が、人間が疲弊していくような不気味さが漂っていました。
賛辞として書きますが、すごく地味な設定、展開ではあるのです。しかしながら、片時も画面から目を離せない緊張感が、時間が進むごとに増していく。それはひとえに、俳優部に対する演出の的確さと、抑制された演技、そして空間の切り取り方などにあらわれていたと感じました。

幕引きまで引き伸ばされる「見えない/隠された/表象されない」恐怖。
僕たち観客は、それが隠されれば隠されるほど「見てみたい」と思い始める。
実に「ホラー映画」の特長を活かしきった、シンプルながら秀逸なプロットかと思います。

ラストで明かされる「恐竜」のヴィジュアルの禍々しさ一発で、はい、最高です、と親指上げました。
もちろん、その造型の完成度もさることながら、それまで「1階」の主人公たちを丁寧に描いてきた時間があるからこそ、「2階の恐竜」のヴィジュアルが強烈に脳裏に焼き付くのだと思っています。
単なるインパクトのこけおどしじゃない、配置されている要素それぞれに必然性が感じられます。その演出力の高さ。
恐怖と対峙した際のリアクションも素晴らしかったです(次第に変容していくヘアメイクも然り)。

『呪怨2 劇場版』の「壁からの音の正体」みたいなアティテュードを想起しました。ああいった類の恐怖演出、だいすきなんですよ……。

子どもの答案用紙もシンプルなアイデアながら、静かに残酷で厭な余韻が残る小道具演出で感服。子どもの描いた絵、みたいなことは思いつけるのに、答案用紙って恐怖アイデアは意外になかったかも……。

余談ですが、(大賞受賞の有無を関係なく願望として)最も長編版が見てみたいなーと感じたのは本作でした。だいぶ尺を膨らましても、空中分解しないだけの強度がある気がします。たとえば、タワマンを舞台に『102階に恐竜がいる』とかも出来ますね(すみません)。

『闇の経路』(監督:及川玲音)

驚くべき総体クオリティの高さたるや。すごいな映画美学校製作……自主映画監督たちは、ぐぬぬと唇をしばらく噛み締めたのではないでしょうか。

画面のルックがかなり高いので見逃されがちですが、意外にも本作、次々とジャンルシフトしていく意欲作だったと思います。
一定水準以上の格調高さを保持しながら、ずいぶんとヘンテコなことをやってのけているわけです。でも、撮影/照明/録音といった技術部のレベルがめちゃ高いため、あんまりそのヘンテコさ、ジャンル横断感は強まっていない。むしろ、オーソドックスな作劇の印象すらある。でも、やっぱりこの映画ヘン!というのが感想です。

思いつきはするけれど、まあ我々の力量とバジェットでは、そのプロットは実現不可能だな……ということを、ほとんど全部実現してみせてるのが心からすごい。もちろん、美学校製作というお膳立てはあれど、「それでも、こんな映画をこのクオリティで完パケできているのは才能でしかない」と納得ができます。

カースタントが見れるなんて全く予想していませんでしたし、走行車同士の切り返しスローモーションも、見事な名場面となっていました。
こうして、走行する車の車体、走行する車の車窓、走行する車の運転席などを撮ること、「走行する車を撮る=カメラが並走して撮影すること」の難しさを、あまりにも円滑にクリアできていることに恐れ入ります。

和製『激突!』みたいな話なのかしら、と思っていると、まさかの和製『クリスティーン』だったという。これは結構、突飛なサプライズでチャームだと感じました。ああ、そうくるかと。しかもこの題材で。それは結構すごいことだなと。

また、主演女優の佐藤睦さんの演技も素晴らしかったです。抑制されながらも、眼差しに滲み出る感情表現が秀逸で、その芝居に呼応する形でカメラが構えられていく相互関係には笑みがこぼれました。
もうひとりの主人公とも呼べる宮本和武さんも、発話や表情含めて「分かって演じている/演出している」のがひしひしと伝わりました。ちゃんと異物感があるのに、ああ、この人は悪人ではないと確信できるな、という深みが、的確な演出と芝居の解釈の中に見受けられました。

車窓越しにこちらを見つめる主人公、松葉杖をつきながらも力強く歩行してみせる主人公、ヘッドライトに向けて両手を差し伸ばす主人公、雨(雨降らしできるのズルい!)の中で感情を吐露する主人公……主人公としての演出と芝居、その強固さを最も感じました。

ラストショットも普遍的(『ドライブ・マイ・カー』的な作法)でありながら、うっすらとした絶望がスクリーンを横切る余韻すら残して完璧でしたね。

「いろいろとうますぎる」という隙のなさが、どのように評価されたのか、皆さんの感想も気になるところです。
敢えて言えば、観客が能動的に答えを導き出すような謎もなければ、映画が親切にすべてを回答してしまうので、疑問も思考も残りにくい、ということはあるかもしれません。でも、完成度はダントツで高かったと断言できます。

僕は単純に「これだけギアが違うぞ!」と観ながら、大変興奮しました。

『夏の午後、おるすばんをしているの』(監督:片桐絵梨子)

これはすごい……圧巻でした。始まってすぐに「これは明らかにディメンションが異なる作品が来た……」という、半ば感覚的に察知されてしまう「センスの良い作家のセンスの良い傑作」を観ているという感覚が常にありました。
技術力の高さは当然のこととして(スタッフ陣がすごいメンツ!)、ひとえに、監督の視点の独特さ、眼差しの特異さ、そして、恐怖に対する嘘偽りのない信頼を最も感じました。
つまり、「ホラー映画は"恐怖"を通して何を表象できるか」という命題に対する、作家なりのひとつの回答としてあまりにも強固です。

たとえば、クライマックスで提示される怪異それ自体は、幾多もの類似シチュエーションをホラー映画ファンならずとも目撃しているわけです(ものすごく身近な範囲で言えば、近藤亮太監督の『鬼の呼び声』を想起しました)。
んなベタな恐怖演出をされたところで/したところで、果たして怖いかね……という邪推を跳ねのけるようにして、本作はちゃんと怖い。見たことがあるシチュエーション、展開にも関わらず、あまりにも正確に「こういう描写は確かになかったかもしれない」という新鮮さとエモーショナルがある。そこが心底すごい。全て演出力とセンスによるものだと感じます。全体のトータルデザイン、シーンの配置の感覚においても。

あからさまに「怖いですよー」と怪異を演出させずに、主人公の女の子の視点で、時間を掛けてゆっくりと(しかし的確な尺数で)、次第に恐怖を展開させていくのも信頼できます。

ラストの幕切れにしたって、クリシェであれば「そんなひと夏の怖い体験でした。おしまい」と終わってしまっても文句はないのに、より一層、終わりなき暗黒と孤独感を想像させるような後味の悪さで、わかってらっしゃる、最高……と恍惚しました。

子どもの頃のお留守番が永遠に感じられたあの感覚を、ここまでホラー映画として表象してみせた例は、世界的に見ても存在しないのでは?と過言っぽいことを書いてみたり。

人形の絶妙な造型(汚れているけど、汚れすぎていない、絶妙な不憫さ)、壁にかけられたワンピース、押入れの闇と、そこにあった写真、庭を介して密室が密室でなくなる感覚、遮蔽物としての扉、めんつゆ、胡瓜、塩、人形を投げる主人公と、投げられた人形、突然大荒れしている外界……そして何より、主人公の名演。『シャイニング』のトニー的な仕掛けかとミスリードさせて、中盤でまたベクトルを変えてみせる手腕。

こうして、あらゆる要素が作り手の才能ゆえに的確に配置、描写されていく本作は、紛れもなく「片桐監督にしか撮れないホラー映画」でした。

敢えて負け惜しみを書いてしまえば「この座組はズルいっすよ!!」ということになるのですが、それも含めて戦略的勝算であったし、優れたスタッフ陣だから作品が自ずと優れていくのでは当然ありません。

片桐監督におかれましては、この独特の感性をどうか喪失することなく、ますます磨きをかけていっていただきたいと思います。

『東京から西へ100マイル』(監督:ヤマモトケンジ)

開始間も無く、乗用車がアホみたいなぶっ飛び方をするのですが、そういった「ツカミ」演出が相変わらず上手い監督です。
物語が途中から開始する躍動感も含めて、ステディカムでの撮影も、逃げ惑う女子高生の姿も、フィジカル優先で作劇が行われており、「身体的アクション」に着眼した視点が一貫しているように感じられました。

『リフレイン』同様、本作も早くからクラウドファンディングを催していることが見聞きされたので、なるほど、意外にもこれまで入選していなかった"ゾンビ映画"というジャンルで挑戦するのかと、楽しみにしていました。
で、入選。勝算通りだったということではないでしょうか。

ゾンビ映画を敢えて自主制作で創作する際に、全く新しい概念で"ゾンビ映画"を再定義してみたり、これまでになかったアイデアを提示してみせたり、そういった創意工夫の面白さがあると思うのですが、本作はそういった予想とは裏腹に、オーソドックス且つ至って真面目なゾンビ映画として完パケされていたと感じます。
ゾンビという恐怖の対象それ自体よりも、作り手は主要登場人物に移入しており(その作法自体は当然なんですが)、だからゾンビ描写よりも、人間パートへ圧倒的に尺が割かれています。それも理解できます。ただ、そうなると、如何にして演者の芝居を、ドラマを見せていくか、その脚本と演出力に重きが置かれるはずです。

個人的には残念ながら、本作において、そういった脚本や演出力の魅力を掴むことはできませんでした。再三、これも好みに他なりません。

たとえば、ガソリンスタンドでの女子高生の会話に至っては、そこで彼女たちが発話させられている台詞が、それは一字一句そのように発話させてしまっていいのだろうか?とか、そもそもこのリアリティラインで、その会話がここに配置されている効果は何なのか?とか、それまでのスピード感も相まって、若干の停滞を感じざるを得ませんでした。
せっかく、非凡なシチュエーションを楽しむためにゾンビ映画を目の当たりにしていた観客は、突然挿入される「見たことがある」「聞いたことがある」凡庸な台詞のやり取りに、若干戸惑ってしまうのです。
ああいった会話で「ドラマ」を提示できるほど、観客の思考は停滞していないはずです。そもそも、あれを作り手すら「ドラマ」とか「作劇」として受容してしまう状況は、あまりこんなことは書きたくないですが、インスタントな邦画がもたらした大罪だとすら感じます。
本来は、そんな簡単に人間もドラマも描けるほど小さいものではない。そういった意識を、作家は自覚しなくてはならないはずです。

後半部に関しては、まるで『ワールド・ウォー・Z』(原作小説版)の如く場所をスライドさせた末に、再び別の女性たちの「会話」を描きます。
ここで「ちいかわ」を引用する才には笑ってしまいましたが、であるならば、クライマックスはその「ちいかわ」的な展開や描写が必要だったのではないかとも感じました。「じゃあさっきのちいかわの話は何だ……?ゾンビ総体に対しての挿話……?」と、配置された言葉たちが作劇に絡まない妙な違和感が残りました。
また、パンデミック下の細やかなひとときとしての喫煙も、それ自体が何かを表現できているシーンだったのかと問われれば、疑問が残ります。

そして、臆面もなく『28周後…』的なゾンビラッシュを似たような緑の風景の中で再現することと、流れる劇伴までもが『28周後…』のジョン・マーフィ作曲のテーマ曲に酷似していることを、個人的には受け入れ切れませんでした。

まあ、もはやこれも負け惜しみですけれどもね、「俺の方がゾンビ映画好きだよ!」という気持ちが、どうしても。ゾンビ映画でやれることは、もっと無限に可能性があるんだよ!という。
同時に、「俺の方がゾンビ映画好きだよ!」という言葉は、本作を前にして真空を切り、微風も起きません。なぜなら、作家としての技量にそんなものは関係なく、「コロナパンデミックとゾンビパンデミックをメタ的に接続した」という設定の中で、「追ってくるゾンビから逃げる」という状況を作り上げて、そのアクション、フィジカル優先でカメラに納められていさえすれば、それも「ホラー映画」であるからです。

だから、バリエーションの豊かさとして本作がコンペティションに入選していることも理解ができますし、他の誰よりも、「ゾンビ映画に挑戦して勝負するぞ」という「ジャンル一点型」の気合いが感じられました。

3回連続入選ですからね、次もまた新しいジャンルで勝負してくるのか、楽しみにしています。

『fataL /ファータル』(監督:峰尾宝)

ワンルーム版『HOUSE』×ギャスパー・ノエ『CLIMAX』!と銘打ってしまおうかと思うくらいには大変好みの作品でした。

こういった「天才」を発掘するために、日本ホラー映画大賞は開催されていたんだなと、コンペティションの存在意義にすら思いを馳せてしまうほど。

どこの天才がホラー映画大賞に応募したのだ……と調べてみると、PFF2022受賞監督ではありませんか。なんだ、本当にちゃんとただの天才だったか……。彼らが正しく世界に見つからなければ、それはあまりにも不健全だと感じます。

「未だかつて誰も見たことがなかったオリジナルの映像」を提示できてる時点で強いのですが、それぞれのショットに対するヴィンジョンの強固さというか、信念みたいな、「絶対にこのショットはこう撮る!」という情熱と技術力が凄まじいです。
イメージの想像力の豊かさのみならず、それをどこに出しても恥ずかしくないレベルで形にしてみせた技量をこそ高く評価するべきかと思います。

思い返せば、本作は正しくカオティックにカットが繋がれていくのですが、そのひとつひとつの画が持つインパクト、構図の的確さが相まって、乱暴なようでいてしっかりと印象が残る、絶妙な選択/判断が施されていたと感じます。それはプリプロダクション/撮影/ポストプロダクションの全過程において、そのように感じられます。

主演俳優の方の芝居も過不足なく的確で、台詞量が多いわけではないにも関わらず、その表情の豊かさで作品を誘引してみせていました。彼女が困ったり恐れ慄く姿は、これは言葉通りの意味で、大変チャーミングでした。
また、彼女に向けるアングルも、たとえば「ここから撮ると怖く映るぞ」という選択以前に、しっかりと被写体を魅力的に、美しく撮ることに長けていました。この作家は人間に興味がないんじゃないか(笑)と思わせかねないところを、しっかりと俳優も魅力的に撮れることを証明できているのも嬉しい点です。

「ホラー映画」に関する基準値、みたいなことを書くのはあまりにも野暮ですが、客観的に見て、『fataL /ファータル』が正しく「ホラー映画」として受容されるかどうかには疑問も残ります。
それは、サイケデリック且つカオスなまでの面白恐怖描写の乱れ打ちに際して、メリハリやタメよりも物量が選択されているという点においてです。
ここでは果たして「恐怖」が分散してはいないだろうか、という視点で、本作について熟考することが可能かと思われますが、皆さまはどう感じられたのでしょうか。

僕にとっては、「これがホラー映画」ではなくて「これもホラー映画」という可能性が心から嬉しかったです。ホラー映画は、もっと自由でいいと思うし、その拡張性こそが、このジャンルの魅力のひとつに他ならないからです。

というか、クライマックスの地獄絵図連発とか、僕は怖かったですけどね……。

起承転結という作劇ではなく、起承結結結結結結みたいな特異な作劇も素晴らしい。

序盤、大量のDVDが収納された棚が映ったときには「うわーやっちまったなー、こういうのが自主映画で一番恥ずかしい自意識なんだよなー」みたいな、ものすごくヤレヤレƪ(˘⌣˘)ʃな態度で観てしまっていたのですが、その後、しっかりと異様な美術として機能していましたね。本当に失礼しました。
ぬいぐるみにしてもそうですが、美術のセンスも抜群に良かったですね。

僕個人の好みでは、こういった既存のディールから天才的に逸脱してみせた作品こそ、新しい才能として認めるべきだと考えます。
世界に出すことが誇れる、「現代」の「新しい」ホラー映画でした。

ちなみに、"ふぁーたる"って何? "(ファム)ファタール"じゃなくて?と思っていたのですが、調べたところ「致命的な、きわめて重大な結果を招くさま」という意味らしいです。ピッタリでしたね。

『逆廊』(監督:辻知広、碇山薫人、長田渉)

出た!in-facto!現状、禍々しい作品をYouTube上で立て続けに発表し続けている映像集団まで応募していたなんて。『椅子』の衝撃は記憶に新しいです。強豪でしたね。

前半ドラマパートとミニDVテープ映像の質感に、明確に差異が発生するようにカラーグレーディングされていたのも、芸が細かいというか、演出が行き届いている喜びがありました。

ミニDVテープに残されていた映像の禍々しさは、もはやin-factoお手の物といった不気味さ。そのノイズや質感にも信頼ができました。
もうあの映像一発で、はい、入選、という強さがある。そういう一点突破型の恐怖は強い。

たとえば僕なんかは、「(ネタバレになるので書きませんが)あの人にああいった格好をさせてしまうと、それはアリ・アスターみたいなことになってしまうんじゃないの?」という先入観がはたらいて、『逆廊』で表象された「恐怖」を、恐らくは事前に選択肢から外してしまうと思います。
しかし、そういった理性的なストッパーこそが、「ホラー映画」にとってはアイデアを阻害する要因に他ならず、そこに作家のオリジナリティをどの分量で付与できるかが才能なのだなと学びがありました。
事実、『逆廊』で表象される"それ"は、決してアリ・アスター的な作法には陥っておらず、しっかりと、独自の生理的な嫌悪感を演出できています。

実は、昨今のフェイクドキュメンタリーブームも相まって、第3回はそういった作風の作品が母数を増やすのではないか、しかしそれぞれに差異やオリジナリティが見出せず、フェイクドキュメンタリーが入選することはないのではないかと予想していました。
だから仮にin-factoが応募してきても、果たしてフェイクドキュメンタリーならどうだろうか……とすら考えていました(すみません)。
ところが、『逆廊』はフェイクドキュメンタリーという体裁を回避しながら、作品内で「フェイクドキュメンタリー」的な恐怖を表象してみせた。これは正しく、的確な判断だったかと思います(もしかすると、『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』の影響もあったのかもしれませんが)。

ただ、クライマックスにおいて、僕は"それ"の顔を一瞬でも映すことが「ホラー映画」としての心意気なのではないかとも感じました。
とは言え、それをやってしまうと、ラース・フォン・トリアーの『キングダム』で笑っちゃうほどグロテスクに顔を見せたウド・キアみたいなことになってしまうので、もちろん監督の判断は懸命だと思います。単に好みの問題ですね。

ラストショットも良かったです。ラストショットに至るまでの、空白の時間を考えれば考えるほど、本当に厭でしたね……。

おわりに

以上です。なんだか偉そうにすみません。
ただ、本当に心の底から「全作品見ることができて良かった」と思える上映会だったことは間違いありません。

実は、僕も拙作を応募して、一次選考を突破し、最終選考の9本の激戦に挑戦した人間です。
言わば、彼らはライバルだったわけですし、正直な気持ち「俺より面白い映画を作らないでくれ!」というのが本音ですよ。
それにも関わらず、鑑賞中は悔しさよりも「すげえなぁ」「おもしろいなぁ」と、ひとりのホラー映画ファンとして楽しんでいる自分がいました。それには自分も驚きましたし、それだけレベルが高かったんだなと「納得」することができたのです。
もちろん、ちゃんと悔しさも感じています。でも、この悔しさも、ものすごく前向きに捉えることができて、むしろ今後の活力にすることができています。

それぞれの作品に対して、あきらめずに撮っていただきありがとうございましたと、感謝の気持ちでいっぱいです。

さて、そんな自身の個人的な総括として、
本稿は、第3回日本ホラー映画大賞【極私的】総括②へと続きます。
努力の汗と、屈辱の涙、そして、それでも尚残り続ける、ホラー映画への愛と呼べるものについて書くことでしょう。

つづく

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