『Chime』 ディスコミュニケーションの作劇が、映画と観客のディスコミュニケーションにまで侵食する、ただ一本の新しい恐怖映画
『Chime』(2024年/黒沢清)
【あらすじ】
誰も気がついていないが、わたしもあなたも全員狂っている
自分がホラー映画を撮るタイミングで絶対に観ない方がいいと思って暫くスルーしつつ、座組のほとんどが本作の話ばかりするので、折れてやっと観て、あまりにも創作意欲の糧となり励みとなった。
怖いよりも前提に、「まだこんな表現があるのか」「こんなことでいいんだ」「ホラーはやっぱり最高に面白いな」と勇気をもらえた。
好きなものを撮っていいよと言われてコレを撮ってしまう、黒沢清の狂気or天然っぷりにこそ一番感動したかもしれない。ああ、そういうことでいいんだと。語りたいテーマとかメッセージとかよりも、好きなことと面白いことをひたむきに試みる自由度の高さ。それこそが、現代のホラー映画の拡張であり延命措置に他ならないはずだ。
黒沢清には度々勇気をもらう瞬間というのがあるが、個人的には黒沢清が99年に撮った『大いなる幻影』を初めて観た時の感覚と若干似ている。"映画"に縛られず、逆に映画を"縛っている"ような清々しい態度が通じているように感じる。
黒沢清的ホラー表現の金太郎飴みたいに評されることが多いけれど、物語もストーリーも説明も真実も消失している感覚、作劇も台詞も脱臼している感覚というのは高橋洋『ザ・ミソジニー』に似ているような感触もある。あとはもちろん、影響元の酒井善三の『カウンセラー』とか。
とは言え、『Chime』はより即物的な面白くて怖い演出に満ち溢れていて、決して難解ではない。難解ではないけれど、ここまで宙吊りを貫く映画も稀少で、たまらなく嬉しい。
ずっと映画に着地できない感覚は、「映画」というものを分かったつもりでいながら、絶対的に「映画」と同化することなんてできない幽霊になった気分だ。
『NN4444』の一編『VOID』然り、世界が終わっていく過程で"宙吊り"と化す人間や風景を眺めるのが、まさに現実においても"宙吊り"されている僕たちには心地よく、令和ホラーのニュースタンダードになる気がする。
『CURE』のラストシーン以降の世界観みたいなものは恐らく黒沢清本人も意図しているとは思うけれど、渡辺いっけい演じる刑事が、実は自分のことを刑事だと思い込んでいるただのオッサンなんじゃないかと思って観たら、より一層面白い。
鶏肉ブン投げと『CURE』の生肉ブン投げの接続はギャグとしても、黒沢清の「敢えて食べ物を粗末に扱う」というフェティッシュには信頼が抱ける(その後、スコップをブン投げる瞬間がめっちゃ怖いけど)。
『トウキョウソナタ』地獄verみたいな食卓シーンがあまりにも最高で泣いた。
深夜、窓の外から空き缶らしきカラカラという音が聞こえてきて、俺の家の近くにも狂った田畑智子がいると嬉しくなった。
ロケーションも全部いいし、中野のあそこにはぼーっと立ち尽くしに行きたい。
映画館ではなくRoadsteadの配信レンタルで観たけれど、映画館で観ていたら音響で喰らっただろうし(塚本晋也的暴力音響)、映画館から出ても映画の中の風景が持続しているので狂いのスイッチを半押ししそうになっていただろう。こんな怖い映画を映画館で流しちゃダメですってば、という意味で、だからこそ映画館で観るべき映画だったかもしれませんね。